日本キリスト教会 南福島教会(福島伝道所)
Nippon Kirisuto Kyoukai/Church of Christ in Japan Minami Fukushima-church
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説教本文
神の平和
2026年8月23日
フィリピの信徒への手紙 4章2~7節
あなたがたの寛容を、みんなの人に示しなさい。主は近い。
芳賀繁浩牧師
パウロは、「私たちの国籍は天にあります。そこから、救い主である主イエス・キリストが来られるのを、私たちは待ち望んでいます」と語りました。そして「キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、私たちの卑しい体を、ご自身の栄光の体と同じ形に変えてくださるのです」との約束を明らかにしました。この希望と約束があればこそ、パウロは「主にあってしっかりと立ちなさい」と勧めることができたのです。
その勧めは具体的な形をとります。パウロは「私はエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主にあって同じ思いを抱きなさい」と、直接名前をあげて、フィリピの教会が「主にあってしっかりと立つ」ために助言するのです。
パウロは、「二人は、命の書に名を記されているクレメンスや他の協力者たちと力を合わせて、福音のために私と共に戦ってくれた」と言います。「命の書」が何を意味するかについては議論がありますが、「殉教者名簿」である可能性は少なくありません。だとすれば、この二人は迫害を共に耐え忍んだ「戦友」ということになるでしょう。
時代は下りますが、有名な「プリニウス・トラヤヌス往復書簡」には、当時の教会の「女性執事」を拷問によって取り調べたという記述があります。女性たちは責任ある奉仕を(ときには男性以上に)果たしていたのです。ですからこの二人の緊張状態は、単なる人間関係のトラブルとして片付けることはできません。それは、フィリピの教会のあり方をめぐる、教会を二分するような対立である可能性が大きいのです。
パウロは、上に立つ指導者としてこの対立を裁こうとはしていません。またなあなあで終わらせようともしません。同じ一人の同労者として、二人に同じように「主にあって同じ思いを抱いてください」と勧めるのです。
ここで「同じ思いを抱く」というのは、「同じ意見を持つ」ことではありません。意見の前提となる考え方、物事を見るときの見方、事柄を判断する際の物差しが共通であることをパウロは願うのです。
それが、パウロが「主にあって」という言葉を付け加える理由です。人間の力だけで一つになることは困難です。私たちは、自分の正しさを守ろうとします。自分の考えを理解してほしいと思います。しかし、お互いがそうあり続けるとしたら、いつまでたっても一つになることはできません。
私たちが「自分へのこだわり」「自説への固執」から解放されるためには、「わたし」と「あなた」を超えた第三の視点が必要です。それが「神の形でありながら神と等しくあることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして僕の形をとり、人間と同じ者になられ」「人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順」であったキリストです。
パウロは十字架のキリストを指し示しつつ、「そこで、幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、霊の交わり、憐れみや慈しみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たしてください。何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考えなさい。めいめい、自分のことだけではなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい」と勧めるのです。
この十字架の主に目を注ぎ続ける限り、私たちは「いつも」喜ぶことができます。それは「いつも楽しい気持ちでいなさい」ということではありません。当時、パウロは獄中にいたのです。それでも「主にあって喜びなさい」と語ることができました。
キリスト者の喜びとは、問題がないときだけ持つことのできる喜びではありません。苦しいときにも、悲しいときにも、悩みがあっても、私のために十字架にかかってくださった主が共にいてくださる。自分の力ではどうにもならないことがあっても、主は私を見捨てない。その信頼から生まれる喜びです。だから「いつも」「どんなときでも」、なお喜ぶことができるのです。
そしてこの喜びの実りとして、パウロは、「あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい」と言います。「寛容」とは、相手に対して必要以上に厳しくしないこと、相手の弱さを受け入れること、相手を思いやることということです。自分の権利を最後まで主張するのではなく、相手のために少し譲ることのできる広くて穏やかな心です。
教会の平和は、みんなが同じ人になることによって生まれるのではありません。互いの違いを認めながら、互いに少しずつ譲り、互いに支え合うところに平和が生まれるのです。
その理由として、パウロは「主は近いのです」と言います。この「近い」という言葉には、距離が近いという意味だけではなく、「主の来臨が近い」という意味も含まれています。最後の審判者である主が来てくださる。その日が近い。だから、私たちは自分の正しさに固執する必要はないのです。最後に私たちを裁き、救い、導いてくださる方は主だからです。
そして、「主は近い」という言葉は、文字通り、イエス様が私たちのすぐ近くに、私たちの傍らにいてくださるということでもあります。私たちが喜ぶときにも、悲しむときにも、苦しむときにも、悩むときにも、主は私たちのそばにいてくださるのです。
だからこそ、パウロは「何事も思い煩ってはなりません」と言うことができるのです。「心配してはいけない」と言うのではありません。私たちには多くの心配があります。病気のこと、仕事のこと、家族のこと、将来のこと、人間関係のことなど、私たちは心配しないわけにはいきません。
そこでパウロは、思い煩わないための道を示します。それは、思い煩い、心配を自分の心の中に閉じ込めないで、神様に話すことです。「神様、私は心配です」「神様、私は怖いです」「神様、どうしたらよいか分かりません」「神様、私にはこの人を赦すことができません」。それが祈りです。その模範が詩篇です。祈りとは、神様にきれいな言葉を聞かせることではありません。飾らない本当の心を神様の前に差し出すことなのです。
【人知を超えた】
そのとき、「人知を超えた神の平和」にあずかることができます。問題がなくなったから平和になるのではありません。たとえ問題が残っていても、神様が共にいてくださることによって平和、平安が与えられるのです。
涙を流しながらでも祈ることができます。不安を抱えながらでも神様を信頼することができます。そして、そのような私たちの心と魂を、神の平和が守ってくださいます。
【教会とは】
教会は完全な人間の集まりではありません。初代教会にも、意見の違いがあり、関係の難しさがありました。しかし、そのような教会にパウロは「主にあって」同じ思いを抱きなさいと語ります。「主にあって」喜びなさいと勧めます。「あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい」と求めます。「何事も思い煩ってはなりません」と語り、「神に打ち明けなさい」と語ります。そして最後に、「神の平和があなたがたを守る」と約束します。
それは、私たちは互いに完全であることを求めなくてよいということです。相手が自分と同じであることを求めなくてもよいのです。主が近くにおられることを信じて、互いに寛容であり、互いに祈り、互いに支え合えばそれでよいのです。
私たちの心には、今日もさまざまな心配があります。しかし、その心配を抱えたまま、神の前に立つことができます。祈ることができます。祈ってもなお問題が残るかもしれません。それでも、それは神様が私たちの祈りを訊いておられないということではありません。
神様は、私たちの思いをはるかに超えて、私たちのために「良いこと」を行ってくださいます。私たちのためにそのひとり子を十字架におかけになったお方が、それ以下のものを私たちにお与えにならないはずがないからです。このことに気がつくことが、神の平和、神の平安の根拠です。それが私たちの「心と考え」を守ります。
心配を神様に委ねましょう。感謝を込めて祈りましょう。そして、神の平和に自分を委ねましょう。問題が消えるとは限りません。しかし、私たち自身が変えられていきます。問題の中にあっても、神が共にいてくださることを知ることができます。そして、私たちの心と考えは、キリスト・イエスにあって、神の平和によって守られていきます。
そして、私たちが、神の平和によって守られた「心と考え」によって生きるとき、私たちは神の平和の証人として生きるのです。教会が、互いの違いを越えて、主にあって一つとなるなら、教会は神の平和をこの世界に示すひな形となります。私たちが主にあって「いつも喜ぶ」ことこそが、最も雄弁な主イエス・キリストの証しであり伝道なのです。