日本キリスト教会 南福島教会(福島伝道所)
Nippon Kirisuto Kyoukai/Church of Christ in Japan Minami Fukushima-church
説教一覧
説教本文
ノア
2026年7月12日
創世記6章5節~7章5節
ノアの歴史は次のとおりである。その時代の中で、ノアは正しく、かつ全き人であった。神様と共に歩んだのがノアであった。(創世記6章9節)
芳賀繁浩牧師
主は「地上に人の悪がはびこり、その心に計ることが常に悪に傾くのを見」られました。ここで「悪」と訳されている言葉は、道徳的な失敗や一時的な過ちのことではありません。神様が創造を終えられた時「極めて良かった」と宣言されましたが、その「良い」に対置されるのがこの「悪」です。人は神様がお与えくださった「良い」あり方を捨てて、自ら神様に敵対する存在となってしまったのです。
神様は、行動だけではなく、その根源にある心を問題にしています。「心」とは、感情だけではなく、人間の思考、判断、意志、人格の中心を意味しています。外側の行いだけではなく、人間存在の最も深いところが「悪く」なってしまっているのです。
そして「思い巡らすこと」と訳されている「イェーツェル」は「形づくること」「形成すること」を意味します。人の心が作り出す考えや企ての全てのことです。そしてそれは「絶えず悪に傾」いているのです。時々悪に傾くのではなく、継続して、不断に悪を生み出しているというのです。悪は人間の存在全体を深く蝕んでいる力であることが示されているのです。
心を痛められた神様は「地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められ」ます。「悔やむ」とは人が失敗を後悔することとは異なります。神様が誤った判断をされたということではなく、深い悲しみや痛みを覚え、その状況に対して態度を変えられることを表しています。神様は罪を見ても何も感じない無感覚なお方ではなく、御自分が愛をもって造られた人間が罪によって滅びへ向かっていることを深く悲しまれるお方なのです。
さらに「心を痛められた」とは、強い苦痛や悲嘆を意味します。神様は、人の罪を御自身の悲しみとして受け止められるのです。それは裁きの前にある愛の悲しみであり、愛しておられるからこそ罪をそのままにしておくことがおできにならないという聖なる愛の現れです。
神様は、「私が創造した人を地の面からぬぐい去る」と宣言されます。それは、これ以上地上に人の悪がはびこることを止めるためです。神様は「極めて良かった」この世界が、人の悪によって汚され傷つけられていくのを放置することができません。この世界を人の悪から守るために、神様は人を「地の面から消し去る」ことを決意されるのです。
けれども、裁きの宣言によって聖書は終わりません。「だが、ノアは主の目に適う者であった」と記されます。この神様の「だが」「しかし」によって全てが転換していきます。人間の側には希望がありません。けれども神様は御自身の恵みによって救いの道を開かれます。
「目に適う」と訳されている言葉は「恵み」とも訳される言葉です。人間の功績によって得られる報いではなく、神様が自由な憐れみによって与えてくださる恩寵を意味しています。ノアは優れた人物だったから選ばれたのではありません。神様の恵みによってこそ、ノアは神様と共に歩む者とされたのです。
9節には、「ノアは正しく、かつ全き人であった。神と共に歩んだのがノアであった」と記されています。「正しい」と訳されているヘブライ語は「ツァディーク」です。この言葉は、道徳的に非の打ち所がない人物を意味するものではありません。本来は、正しい関係の中に立っていることを表す法的な言葉です。神様との関係において神様に受け入れられている者、神様との関係を誠実に保っている者が「正しい人」と呼ばれているのです。
ノアが「正しい人」であったということは、彼が何一つ罪を犯さない完全な人間だったということではありません。実際、洪水の後のノアの弱さや失敗も聖書は隠すことなく記しています。ノアの正しさとは、神様を信頼し、その御言葉に従う歩みの中に現された神様との関係の真っ当さのことなのです。
ですから「全き」と訳される「ターミーム」も「完全無欠」という意味よりも「一途である」「誠実である」という意味です。神様に献げる犠牲が「傷のないもの」であることを表す際にも用いられますが、それは外面的な完璧さではなく、神様に献げるにふさわしいものであることを表しています。
ノアは、神様の前で心が分裂しておらず、一途でした。周囲の価値観に流されることなく、神様だけを見上げて歩む誠実さが与えられていたのです。そして、最も重要なのが「神と共に歩んだ」という一句です。旧約において「歩む」とは、人生そのもの、生き方そのものを表します。一時な宗教的体験ではなく、日々の生活の中で神様の導きを受けながら歩み続ける生涯の全体が意味されているのです。
そしてこの歩みは、「神の前に腐敗し」「暴虐に満ちていた」と形容される「地」のただ中でなされました。ここで「暴虐」とは、単なる物理的な暴力だけを意味しません。それは、不正、搾取、権力による圧迫、社会秩序の崩壊など、人間同士の関係が破壊されている状態のことでもあります。罪は個人の問題にとどまらず、社会全体を腐敗させ、共同体を破壊する力を持つのです。
神様はその現実を見過ごされませんでした。神様はノアに言われます。「すべての肉なるものの終わりが、私の前に来ている。彼らのゆえに地は暴虐で満ちているからである。今こそ、私は地と共に彼らを滅ぼす」。それは「霊なるもの」を捨てて「肉なるもの」を求め、その結果「肉な者」となってしまった者たち、そして自らのみならず、すべての創られたものに「終わり」を来たらせようとしている者たちに「終わり」をもたらすとの宣言です。
神様はノアに箱舟を造るよう命じられます。ここで詳細な設計図が記されているのは、神様の救いが漠然としたものではなく、極めて具体的で確かなものであることを示しています。神様は裁きを宣言されるだけではありません。同時に救いを備えてくださいます。裁きと救いは別々にではなく、一つの神様の御計画の中で同時に進められているのです。
それどころか、神様は「私はあなたと契約を立てる」と言われます。ここで聖書で初めて「契約」を意味する「ベリート」という言葉が登場します。それは、神様がその恵みによって人をご自身との交わりへ招き入れ、その約束を誠実に守り続けられることを意味しています。ノアはその契約にあずかります。「すべて神が命じられたとおりに行い、そのように実行した」とは、「神と共に歩む」とはどういうことかを示しています。神様の言葉は、人々から見れば理解し難いものであったでしょう。陸地に舟を造るなど、笑い話でしかありません。しかしノアは、自分が理解できるかどうかよりも、神様が言われたということを大切にしました。信仰とは、自分が納得したから受け入れるということではなく、神様が語られたから従うというあり方のことだからです。
神様は「あなたと家族は皆、箱舟に入りなさい」と命じられます。箱舟の建造は終わり、いよいよ神様の裁きが始まる時が近づいていました。しかし、ここで神様が最初に語られる言葉は裁きではなく、救いへの招きです。神様は御自分が備えられた救いの中へ、まずノアとその家族を招き入れられるのです。
その理由は「この時代にあって私の前に正しいのはあなただと認めた」からでした。ここで改めて「ツァディーク」という言葉が用いられますが、注目すべきは、神様が「正しいのはあなた」だと「認めた」と言われることです。正しさを判断されるのは、人ではなく神様です。また、「私の前に」という表現も重要です。人間の評価ではなく、神様の御前においてどうであるかが問われています。ノアは周囲の人々の顔色をうかがって歩んだのではありません。神様の顔の前に生きることを第一として歩み続けたのです。
二節から三節では、清い動物と清くない動物を区別して箱舟に入れるよう命じられています。洪水後、ノアは箱舟を出るとすぐに主への献げ物をささげます。そのため神様は、礼拝が途絶えないよう、犠牲に用いる動物を十分に備えてくださいました。神様は肉の命を救われるだけではありません。救われた者が神様を礼拝し、神様との交わりの中に霊の命を守り続けられるように備えてくださいます。救いの目的は、単に滅びを免れることではなく、神様との交わりを回復し、礼拝する民として生きることだからです。
そして神様は「七日の後、私は四十日四十夜、地上に雨を降らせ」ると告げられます。七日という期間は、神様が最後に与えられた猶予の時でもありました。神様は直ちに裁きを執行されるのではなく、なお忍耐をもって時を与えられます。神様の裁きは決して性急なものではありません。神様は繰り返し警告を与え、悔い改めを待ち続けられるのです。けれども、それは無限にではありません。神様の裁きが侮られることは決してないからです。
そして最後にもう一度「ノアは主が命じられたとおりにすべてを行った」と語られます。この反復は偶然ではありません。それは、信仰とは最後まで神様の言葉に従い続ける歩みであることを示しています。箱舟を造る時だけではなく、その中へ入る時にも、ノアは神様の言葉に従いました。信仰は一時の熱心さではなく、生涯を通して神様の御言葉に身を委ね続ける歩みなのです。新約聖書は、この箱舟を単なる歴史上の出来事として終わらせていません。
ペトロの手紙一3章20節以下では、箱舟による救いが洗礼を指し示すものとして語られています。それは、水そのものに救う力があるということではなく、神様が備えられた救いの中に入れられることを意味しています。そして、その救いは究極的にはイエス・キリストにおいて完成しました。十字架と復活によって、神様は罪に対する義なる裁きを成し遂げると同時に、罪人に対する完全な救いの道を開いてくださったからです。
今日、私たちはノアのように巨大な箱舟を造るよう命じられているわけではありません。しかし、神様がキリストにあって備えてくださった救いを信じ、その御言葉に従って歩むよう招かれている点では同じです。周囲の価値観がどれほど変わろうとも、神様と共に歩む人生こそが真に祝福された歩みであり、その歩みは神様の恵みによって支えられています。洪水の物語は、裁きの物語で終わるのではありません。神様の恵みが裁きを貫いて救いを完成させる物語です。そしてその恵みは、今もなお、主イエス・キリストにあって私たち一人一人に差し出されているのです。