日本キリスト教会 南福島教会(福島伝道所)
Nippon Kirisuto Kyoukai/Church of Christ in Japan Minami Fukushima-church
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説教本文
アダムの系図
2026年7月5日
創世記5章1~32節
アダムの系図は次のとおりである。(創世記5章1節)
芳賀繁浩牧師
ここには「アダムの系図は次のとおりである」と記されています。「系図」と訳されているヘブライ語は、単に家系や血筋を意味するだけではなく、「生み出されたもの」「由来」「歴史」という広い意味を持っています。そして、「アダム」が本来は「人」を意味していることを考えれば、この部分は「人」とは何であるのかを語っている箇所だと考えていいでしょう。
そこではまず「神が人を創造された時、神にかたどって造り、彼らを男と女とに創造された」と語られます。人は「神の形」であり、それは「男と女」という「関係」の中に表されるというのです。人は神との応答のうちに、そして人との交わりの中に生きるように創造されたのです。そして、神様はこの神と人と世界との関わりの全体を「祝福」されます。この祝福に生きることこそが「人」が人であるということなのです。
この「祝福する」という言葉は、創世記の初めから繰り返し用いられて、神様が命を与え、繁栄を望み、御自身との交わりの中で生きることを喜ばれることを表しています。アダムの系図、人の歴史は、この神様の祝福によってこそ支えられ、導かれているのです。
人は、この神様の祝福のゆえに価値があり、この世の物差しや人の思いを超えて生きる意味を持っているのです。現代社会では、人間の価値は健康であるかどうか、能力があるかどうか、社会の役に立っているかどうかという尺度で測られることが少なくありません。けれども、聖書はそのような価値観に対して、人間が尊いのは神のかたちに造られた存在だからであると教え、幼くとも高齢でも、病の中にある人も、弱さを覚えている人も、皆等しく神の御前でかけがえのない存在として生かされていると主張します。この確信こそが人が人であることを支える土台なのです。
けれども、それに続く「アダムの系図」は、繰り返し繰り返し、これでもかこれでもかと「そして彼は死んだ」と語り続けます。それは、神に背き罪を犯した人間に「あなたは必ず死ぬであろう」と告げられた御言葉が現実となったことを示しています。人間は文明を築いても、知恵を得ても、長寿を全うしても、罪の結果として死を免れることはできないという厳粛な事実を、この系図は静かに語り続けます。
それでもなお、この章は死を語るために書かれているのではありません。なぜなら、「そして彼は死んだ」という言葉の前には必ず、新しい命が与えられたことが語られるからです。たとえ人は死んでも神の祝福は死ぬことがなく、その約束は次の世代へと確かに受け継がれ、その流れはやがてノアへ、さらにアブラハムへ、そしてキリストへと至る救いの歴史となっていくからです。
生と死とが交互に繰り返される系図を読み進めていくとき、私たちは「この繰り返しはいつまで続くのだろうか」「結局は死が最後の言葉なのだろうか」と問わずにはいられなくなります。そして、その問いへの神様の最初の答えがエノクです。彼はこの系図の中でただ一人、「そして彼は死んだ」と記されることなく、「神とともに歩み、神が彼を取られたので、いなくなった」と語られます。死はなお現実ですが、それが最後ではないこと、神と共に歩む者には死を超える希望が備えられていることが、この静かな系図のただ中から、まるで夜明けの光が差し込むように示され始めるのです。
このエノクについては、わずか数節の中に「神とともに歩み」という表現が二度も繰り返されています。聖書が強調するのは、エノクが死ななかったということよりも、むしろ彼がどのように生きたかということです。そして、その生涯を特徴づけるものはただ一つ、「神とともに歩んだ」ということだけです。
しかし、聖書が最も強く語ろうとしているのは、その歩みの結果です。「神が彼を取られたのでいなくなった」とあります。ここで初めて「彼は死んだ」との、淡々と、そして呪いのように重ねられてきた生の終わりの言葉の連鎖は途切れます。死は終わりではないのです。もちろん、ここからすべての信仰者が死を経験しないという結論を導くことはできませんし、創世記もそのようなことを教えようとしているのではありません。むしろ、この系図全体の中で一人だけ「そして彼は死んだ」という言葉が用いられていないことによって、死が神の最後の言葉ではないことを、神はこのときからすでに示しておられるのです。
この出来事は、新約聖書においてさらに豊かな光の中に置かれます。ヘブル人への手紙は「信仰によって、エノクは死を見ないように天に移された」と語り、それは「神に喜ばれた」からであると説明しています。そして、そのすぐ後に「信仰がなくては、神に喜ばれることはできない」と続けます。エノクは特別な能力や功績によって神に受け入れられたのではなく、神に信頼し、その御前に歩み続けた信仰こそが喜ばれたのです。そして、彼の歩みはすべての信仰者の歩みを代表するものとして新約聖書に受け継がれているのです。
そして、この希望は主イエス・キリストにおいて完全なものとなります。エノクは死の支配の中に差し込んだ一条の光でしたが、キリストは死そのものに打ち勝ち、復活によって死の力を根底から打ち破られました。それゆえ、私たちはもはや死を最後の言葉として受け止める必要はありません。もちろん、私たちはなお肉体の死を経験します。しかし、その死は神との交わりを断ち切るものではなく、復活の主の御許へと導かれる門となったのです。
その意味で、「神とともに歩む」という言葉は、エノクだけに与えられた特別な評価ではありません。キリストによって神との和解を与えられた私たちもまた、日々の生活の中で神と共に歩むよう招かれています。その歩みは決して華々しいものではなく、毎週の礼拝を守り、御言葉に耳を傾け、祈りを献げ、悔い改めながら新しい一日を歩み出すという、ごく平凡に見える日々の積み重ねですが、神はその静かな歩みを何よりも尊び、御自身の永遠の御国へと導いてくださいます。創世記第五章は、死の系図としてではなく、神と共に歩む者には死を超える希望が与えられていることを証言する信仰の系図として、今日も私たちに語りかけているのです。
系図の中心にエノクという一筋の光が差し込んだあと、創世記は再び静かに系図を続け、メトセラ、レメクへと歴史を進めていきます。そして、最後に登場するレメクについては、それまでの人物とは異なり、一つの言葉が添えられています。それは、彼が生まれてきた子に「ノア」という名を与え、その名前に込めた願いを語っていることです。彼は語ります。「この子こそ、主が地をのろわれたため、骨折り働くわれわれを慰めるもの」。この言葉によって、この系図は、「希望を待ち望む人々の歴史」として閉じられることになります。
「ノア」という名は、ヘブライ語ではノーアハであり、「休息」「安らぎ」という意味を持っています。そして、レメクが語る「慰める」という言葉は、ナーハムという動詞で、「慰める」「憐れむ」という意味を持ちます。この二つの語は響きが非常に近く、古くから言葉遊びのように結び付けられて理解されてきました。レメクは、自分の子に「休息」という名を与えながら、この子が自分たちに「慰め」をもたらしてくれることを願ったのです。
もっとも、ノアが直ちにその慰めを完成させたわけではありません。確かにノアは洪水を通して新しい世界の始まりに立つ人物となりますが、洪水の後にも罪はなお残り、ぶどう酒に酔うノアの姿や、その家庭に起こる悲しい出来事が記されています。ノアは約束された救いを完全に成し遂げる人物ではなく、その救いを待ち望ませる人物となったのです。
しかし、それこそが旧約聖書全体の歩みでもあります。一人ひとりの人物は神に用いられますが、誰一人として神の約束を完全に成就することはできません。アダムも、ノアも、アブラハムも、モーセも、ダビデも、それぞれ神の御業のために召されながら、その使命を完全に果たすことはありませんでした。けれども神は、その不完全な人間たちを用いながら、約束を少しも途切れさせることなく歴史を導いてこられたのであり、その長い系図の果てに、ついに約束の子として主イエス・キリストを世に遣わされたのです。
「アダムの系図」が指し示す、死によって終わることのない命も、神と共に歩む生き方も、そこに与えられる慰めも、イエス・キリストによってはじめて本当の意味で実現することになります。
創世記第五章は決して「長寿の人々の一覧」でも「古代の家系図」でもありません。それは、罪と死の支配の下に置かれた人の歴史の中で、なお神が契約を守り続けておられることを証言する信仰の系図です。神はアダムにおいて御自身のかたちを与え、セツの系統において礼拝する民を残し、神と共に歩む人生の希望を示し、ノアにおいて慰めの約束を与えられました。そして、それらすべての約束はイエス・キリストにおいて一つとなるのです。私たちもまた、この系図に連なる者です。私たちの人生にも老いがあり、病があり、やがて死があります。しかし、私たちは死だけを見つめて歩む者ではありません。神の契約の中に生かされ、復活の主とともに歩み、神が約束された永遠の慰めを待ち望みながら歩む者です。その歩みは決して人の目には華やかなものではないかもしれません。けれども、神様はその一日一日を御自身の救いの歴史の中にしっかりと覚えていてくださいます。
創世記第五章は、静かな系図です。しかし、その静けさの中には、死よりもなお力強い神の約束が脈打っています。そして、その約束は今もなおイエス・キリストを信じる者たちに受け継がれ、私たちもまたその約束の中を歩む者として、来るべき神の国を望み見ながら、それぞれに与えられた信仰の道を歩み続けるよう招かれているのです。