日本キリスト教会 南福島教会(福島伝道所)
Nippon Kirisuto Kyoukai/Church of Christ in Japan Minami Fukushima-church
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説教本文
いのちの言葉を堅く持って
2026年6月21日
フィリピの信徒への手紙2章12~18節
あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。(フィリピの信徒への手紙章15節)
芳賀繁浩牧師
パウロは、「そういうわけだから」と書き始めます。どういうわけかといえば、それは「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた」ということです。
聖書の勧めには、常に福音が、すなわちキリストの出来事が先にあります。私たちは私たちの従順によって救われるのではありません。イエス・キリストの「十字架の死に至るまでの従順」によって救われるのです。そして、この「イエス・キリストの従順」によって救われた者たちは、「イエス・キリストの従順」に目を開かれ、心を動かされ、魂を揺さぶられ、そして何よりもまず父なる神様とイエス様がお送り下さる聖霊に導かれて、「キリストの従順」に倣う者たちとして歩み始めるのです。
それゆえ、ここでパウロが「わたしの愛する者たち」、より正確には「わたしの愛された者たち」と呼ぶときにも、その中身を吟味するなら、その愛の主体はパウロである以上にイエス・キリストの父なる神様です。本来であれば「わたしの愛する、神様に愛されている者たち」となるところです。そのひとり子を十字架にお架けになるほどに私たちを愛しておられる神様に愛されているのだから、そしてキリストの十字架と復活とのゆえに、私たちもまた「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者」と神様に言っていただいているのだから、私たちもまた「おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であ」ることができるはずであるし、またそうでなければならないとパウロは勧めるのです。
そのパウロは「わたしが一緒にいる時だけでなく、いない今は、いっそう従順でいて」と言います。それは、監督者であるパウロがいてもいなくてもということではありません。そうではなく、「従順」であるとはどういうことであるかを身をもって証しした「証人」としてのパウロがいなくてもということです。パウロは、異なった福音に堕ちていこうとするコリントの信徒たちに、身を低くして「懇願」しました。パウロは「幾たびも旅をし、川の難、盗賊の難、同国民の難、異邦人の難、都会の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢えかわき、しばしば食物がなく、寒さに凍え、裸でいたこともあった」(IIコリント 11:26-27)と語り「もし誇らねばならないのなら、わたしは自分の弱さを誇ろう」(30)と証しします。パウロは上に立つものとして命令しているのではなく、共に神様の前にへりくだる同労者としてピリピの教会員たちに勧めているのです。
そのパウロは、「恐れおののきつつ自分の救の達成に努めなさい」と語ります。もちろんそれは、救いが人の努力によって獲得されるということではありません。「達成に努めなさい」と訳されている言葉には「実現する」「完成へ導く」「働き出す」という意味があります。神様から与えられた救いを生活の中に実らせなさいということです。まかれた種は芽を出し、成長し、花を咲かせ、やがて実を結びます。神様によって与えられた救いは、信仰者の歩みの中で具体的な形となって現れていくことになっているのだから、そのようでありなさいとパウロは勧めるのです。「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって。それは神のよしとされるところだからである」と語られる通りです。
ですから、ここで「恐れおののきつつ」と言われるときの「恐れ」も「おののき」も、神様に対する恐怖を意味しているのではありません。聖書において「主を恐れる」とは、神を深く敬い、その御前にへりくだることだからです。「恐れおののきつつ」とは「御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るため」に「そのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった」
(ヨハネ 3:16)神の愛の大きさ、広さ、深さ、高さへの恐れであり、ほかでもないこの自分にその愛が注がれていることへの「おののき」です。それはまさに驚きと喜びと感謝と讃美に溢れた「恐れとおののき」なのです。
パウロはただ勧めるだけではありません。そこにはいつも慰めと励ましが付け加わっています。パウロは「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神」であることを思い起こさせようとします。祈りたいという思いも、御言葉に聞きたいという願いも、悔い改めたいという心も、神に従いたいという志も、そのすべての背後に神様の働きがあるからです。
私たちはしばしば自分の弱さと貧しさに失望し、その愚かさと罪深さに絶望してしまいます。けれども、もし「生まれながらに神と人とを憎むことに傾いている」私たちが、神様の言葉を聞きたいと思い、神様に祈りたいと願い、悔い改めて神様と共にありたいと決意するとしたら、それはいかなる意味でも私たち自身の内側からではなく、私たちの思いを超えて、私たちの外側から私たちに注がれている神様の働き以外ではないはずです。
そして、それが私たちの働きではなく神様の働きだからこそ、そこには確かさがあり、約束があり、希望があるのです。
だからこそパウロは、「すべてのことを、つぶやかず疑わないでしなさい」と勧めることができます。「つぶやく」とは、旧約聖書においてイスラエルの民が荒野で神に向かって不平を述べた時に用いられた言葉です。神は彼らをエジプトから救い出し、紅海を渡らせ、マナを与え、水を与え絶えず守り導かれました。それにもかかわらず民はつぶやき続けました。神の恵みを忘れるとき、人は与えられているものではなく、与えられていないものばかりを見るようになってしまいます。
また「疑わないで」と言うときの「疑う」とは、単なる疑問ではなく、不信から生じる争いや対立を意味しています。教会の力を奪うのは、外からの迫害だけではありません。内側に生じる不平や不満、互いへの批判や対立もまた、教会のいのちを脅かし、キリストの証しを損なってしまいます。
それは、教会が神の恵みに生きる共同体だからです。私たちは、つぶやきによってではなく感謝によって、不信によってではなく信頼によって歩むように招かれているのです。その結果として、「あなたがたが責められるところのない純真な者となり、曲った邪悪な時代のただ中にあって、傷のない神の子となる」のです。
ここで「純真な」とは、「混じり気のない」「純粋な」という意味を持っています。もちろん私たちは自分の力で完全な者になることはできません。しかし、イエス・キリストの救いのみわざによって神の子とされた者は、その恵みによってたとえ少しずつではあっても、「キリストに似たもの」へと変えられていくのです。
そしてパウロは続けて、「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている」と語ります。「堅く持つ」と訳されていますが、この言葉には二つの意味があります。一つは「しっかり握る」という意味であり、もう一つは「差し出す」「掲げる」という意味です。パウロはその両方を含めて語っています。教会はまず福音をしっかり握らなければなりません。御言葉から離れてしまえば、教会はその存在の根拠を失います。しかし同時に、教会はその御言葉を世に向かって差し出すためにこそ建てられているのです、そうでなければ、教会はその存在の意味を失ってしまうのです。
「いのちの言葉」とは福音そのものです。主イエス・キリストの十字架と復活による救いの知らせです。罪の赦しと永遠の命を与える神の言葉です。神様は、この「いのちの言葉」を、知恵ある、力ある、富のある、地位のあるものたちにではなく、小さく、弱く、貧しく、愚かな、「キリストの僕たち」、教会に託して下さいました。それは「どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないため」(Iコリント 1:27)でした。
キリストの僕たちは、「太陽のように」輝くのでも、「月のように」夜を照らすのでもありません。私たちにはそのような力はありません。けれども、私たちは「星のように」、すなわち、あの「東からきた博士たち」が「ユダヤ人の王としてお生れになったかたは、どこにおられますか。わたしたちは東の方でその星を見たので、そのかたを拝みにきました」(マタイ 2:2)と語るような仕方で「輝く」ことができます。それで十分なのです。そして、それは「キリストの僕」以外には果たすことのできない、光栄ある働きであり務めなのです。