日本キリスト教会 南福島教会(福島伝道所)
Nippon Kirisuto Kyoukai/Church of Christ in Japan Minami Fukushima-church
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説教本文
主の名を呼ぶ
2026年6月14日
創世記4章17~26節
その頃、人々は主の名を呼び始めた。(創世記4章26節)
芳賀繁浩牧師
カインは弟アベルに手をかけた後、神様によって追放されます。神様は死刑ではなく追放刑を選択されるのです。カインはなお生きることを許され、それどころか結婚し、子をもうけることさえ許されます。神様の憐れみはそれほどまでに大きいのです。そしてそれは、カインに愛することと愛されること、慈しむことと育むことを教え、自分がアベルに何をしたのか、そしてアダムとエバとに何を行ったかに気づかせて、悔い改めに至らせるためではなかったでしょうか。
しかし、カインはこの神様の憐れみにふさわしく応えたようには思えません。「あなたは地上をさまよい、さすらう者となる」との神様の言葉は、「あなたは地上をさまよい、さすらう者となれ」との神様のご命令であり、だからこそそこには「そうすればあなたは~」という約束があったはずです。
ノドすなわち「さすらいの」の地に住む、とは、寄留者として、旅人として住むということでしょう。ヘブライ人の手紙が「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束のものは手にしませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声を上げ、自分たちが地上ではよそ者であり、滞在者であることを告白したのです」(11:13)と教えるように、神様は、カインに目に見えるものではなく目に見えないものに目を注ぐことを教え、アベルのように、地上ではなく天上を見上げ、人ではなく神様を見つめるあり方、すなわち、信仰を与えようとされたのではなかったでしょうか。追放は、実は遙かな神の国への帰還への約束だったはずなのです。
けれども、カインには神様の御心を理解することができません。否、理解しようとしません。彼は「町を築き」「息子の名前にちなんで、その町をエノクと名付け」ます。「エノク」とは「献げられたもの」という意味を持ちますが、ここでカインはこの町を神様に献げたようには思えません。むしろ「献げられた者」という名を持つ息子の名を町に付けることによって、あたかもその町そのものがカインの一族に献げられているかのようにさえ思えます。カインは、「天を故郷として地上を旅する信仰者」として生きることを拒否して、この地上に自分の一族の町を、そう言ってよければ、王朝を築こうとするのです。
聖書において「名」は単なる呼称ではなく、その人の存在そのもの、さらにはその働きを表しています。町に名を付けるという振る舞いは、自分自身の存在を歴史の中に残そうとする試みとして理解することができます。神との交わりを失った人間は、自らの力によって永続性を確保しようとします。その姿がカインの町の建設に象徴的に示されているのです。
さらにカインの子孫たちの中には、文化の担い手たちが現れます。ヤバルは牧畜の祖となり、ユバルは音楽の祖となり、トバル・カインは金属加工の技術の祖となります。ここには文化・文明の発達が描かれています。
聖書は決して文化そのものを否定してはいません。人間に与えられた創造性も技術も、本来神様から与えられた賜物です。けれども、それを正しく生かして用いるためには、その賜物をお与え下さった神様との正しい関係がなければなりません。それを失うとき、文化も文明も本当の意味で人を幸せにすることはできなくなってしまうのです。
人間は神から離れていても都市を建設することができますし、芸術を発展させることもできます。しかしその発展が神への礼拝を伴わないとき、人間は豊かになるほど神から遠ざかり、本当の人間らしさから遠ざかってしまうのです。
そのことを象徴的に示しているのがレメクです。彼は聖書の中で最初に複数の妻を持った人物として描かれています。人の創造において神様は男と女を結び合わせ、一体となる夫婦関係を定められました。しかしここではその秩序が崩れ始めています。
さらにレメクは妻たちに、自分が人を殺したことを誇る歌を歌います。そこには後悔の言葉はありません。むしろ自らの暴力を正当化し、それを誇示する態度すら見られます。「カインのための復讐が七倍なら/レメクのためには七十七倍」という言葉は印象的です。本来、神様がカインに与えたしるしは、罪人であるカインをなお守ろうとする憐れみの表れでした。しかしレメクはその神の憐れみを、自らの暴力を正当化する根拠へと変えてしまっているのです。ここには、人が神の言葉に従わず、神様に向き直ろうとしないときに、どのように罪が増し加わっていくかが示されています。カインは罪を犯した後に恐れを抱きました。しかしレメクは罪を誇りさえするのです。罪は放置されるならば、人間の内に深く根を張り、やがて良心の感覚そのものを麻痺させていくのです。
レメクとその子孫たちの姿は、「神から離れた人間文化」の行く末を示していると言えるでしょう。都市が築かれ、牧畜や音楽や冶金術が発達する一方、人の心はより傲慢になり、暴力はより露骨になります。文明の発展と罪の深化が並行しているのです。私たちは、神様がカインを追放に留めたのは間違いではなかったかと思いさえします。
けれども、聖書はカインの系統の物語で終わりません。アダムとエバとの間に新しいいのちが与えられるのです。エバはその子にセトと名づけ、「神はカインが殺したアベルの代わりに別の子を授けてくださった」と語ります。「セト」という名はヘブライ語の「シャート」に由来し、「置く」「備える」「定める」という意味を持っています。そこには、神が失われたものに代えて新しいものを与えてくださったという信仰の告白が込められています。
アベルは殺されました。神を信じる者の系譜は断たれたように見えます。けれども、神様は御自身の救いの計画を中断されることなく、新たな始まりを備えてくださるのです。聖書は、人間の罪がどれほど重くまた深くても、神様の恵みがなおそこに働いていることを示すのです。
そして、神様の新しい系譜の中から、カインとその末裔とは異なった歩みを始める者たちが生まれます。「セトにも男の子が生まれた。彼はその子をエノシュと名付けた。その頃、人々は主の名を呼び始めた」。ここで「呼ぶ」と訳されているヘブライ語は「カーラー」です。この語は単に名前を発音するという意味ではなく、祈ること、礼拝すること、助けを求めて呼びかけることを意味します。旧約聖書ではしばしば礼拝を表す言葉として用いられています。そして「主」と訳されているのは普通名詞としての「神」ではなく、固有名詞の「主」(ヤハウェ)です。「主の名を呼ぶ」とは、神を求め、神に祈り、神に従って生きることを意味しています。神様は、ご自身の名を呼ぶ者たち、神を礼拝するものたち、その日々の生活そのものが礼拝であるような者たちを作り出されるのです。
セトは自分の子どもに「エノシュ」と名付けます。それは、弱く、はかなく、死すべき存在としての人間を意味する語です。詩編などでもしばしばその意味で用いられています。セトは人間を弱いもの、愚かな者、貧しい者として認め、だからこそ本当に強く、本当に賢く、本当に豊かな存在である神を呼び求めるのです。そしてそれは同時に、同じように弱く、同じように愚かで、同じように貧しいからこそ、共に主の名を呼び、互いに補い合い、助け合い、愛し合う道を選び取ることに繋がってゆくでしょう。
カインの系譜は、自らの名を残そうとしました。都市を建設し、技術を発展させ、力を誇りました。しかしセトの系譜は、人の限界と弱さを認めるところから始めるのです。そしてその弱さの自覚が、神への祈りと礼拝、そして隣人への愛へと導いたのです。
人は、どれだけの力を持とうと、どれだけの知恵をたくわえようと、どれだけの技術を増し加えようと、なお苦しみ、なお悩み、なお迷います。人は自らの力によって罪や死の問題を解決することができません。人は自分が作り出したものによってはついに満ち足りることはできないのです。人は自分を作り出したお方によってだけ初めて満ち足りることができるからです。
だからこそ聖書は、人間の希望を文明や能力の中ではなく、「主の名を呼ぶ」ことの中に見いだすのです。礼拝とは、自分の力によって生きることをひととき中断して、神に信頼して生きることを新たに確認する営みだからです。
私たちもまた、自らの強さを誇る者としてではなく、神の憐れみを必要とするエノシュとして、主の御前に立っています。そして主の名を呼ぶ者として礼拝へと招かれています。この地上に町を築き、自分の名を残すことではなく、天にある故郷をこそ求め、旅人また寄留者として自らを言い表す、義人アベルの末裔として歩みたいのです。