日本キリスト教会 南福島教会(福島伝道所)
Nippon Kirisuto Kyoukai/Church of Christ in Japan Minami Fukushima-church
説教一覧
説教本文
箱舟
2026年8月2日
創世記7章6~24節
そのはいったものは、すべて肉なるものの雄と雌とであって、神が彼に命じられたようにはいった。そこで主は彼のうしろの戸を閉ざされた。(創世記7章16節)
芳賀繁浩牧師
ノアと洪水の記事は、聖書の中で一番よく知られた物語の一つです。けれども、それは恐ろしい災害と人間の戦いの記録ではありません。人の罪に対する神の裁きと、その中でなお失われることのない神の憐れみについての証言なのです。聖書は、世界を覆いつくす裁きよりも、その裁きの中で神が一人の人を覚え、その家族を救い、新しい創造を始められたことを語ろうとするのです。主が命じられたように主はノアに「あなたは箱舟にはいりなさい」と命じられました。ノアは逆らうことなく従いました。 「ノアはすべて主が命じられたようにした」と記されている通りです。「主が命じられたように」という言葉は、洪水の記事全体を貫く主題です。救いは人の知恵や努力によって得られるのではなく、神の言葉への信頼と従順の中で与えられることを、この物語は繰り返し語っています。
興味深いのは十一節に、「第二の月の十七日」と日付まで記されていることです。聖書は、年月日を明記することによって、この出来事が作り話ではなく、歴史の中で本当に起こった神の御業であることを示しているのです。
この日「大いなる淵の源はことごとく裂け、天の窓が開け」ました。「淵」はヘブライ語で「テホーム」と言います。この言葉は創世記1章2節にも現れ、「やみが淵のおもてにあり」と訳されています。天地創造以前の混沌とした世界を指す言葉です。
洪水とは、単に大雨が降ったという出来事ではありません。それは神様が秩序を与えてくださった世界が、創造以前の混沌へと戻される出来事なのです。神は第2の日に大空によって上の水と下の水を分けられました。しかし洪水では、その秩序が取り払われ、天の水と地下の水とが同時に世界へ流れ込みます。創造が逆転するのです。
罪とは、神が与えられた秩序を破壊することです。そして裁きとは、その秩序を保っておられた神の御手が退かれることです。世界は人間の努力によって保たれているのではありません。神が秩序を支えておられるからこそ存在しているのです。
「雨は40日40夜、地に降り続」きます。40という数字は聖書で繰り返し用いられる象徴的な数です。イスラエルの民は40年間荒野を旅し、モーセは40日間シナイ山にとどまり、預言者エリヤは40日間歩き続け、主イエスは40日40夜荒野で断食をされ、その後、試みを受けられました。
その意味で、40とは神が人を試し、新しい歩みへ導く備えの期間を意味しています。洪水の40日も、単なる期間ではなく、古い世界が終わり、新しい世界が始まるための神の時なのです。そして、ノアとその家族が箱舟へ入ったことが改めて記されています。ノア、セム、ハム、ヤペテ、その妻たち、そしてすべての生き物が神の命令どおりに箱舟へ入りました。同じ内容が何度も繰り返されているように見えますが、聖書はこの繰り返しによって、救いとは神が備えられた場所に迎え入れられることであることを明らかにしているのです。
箱舟の外にいた人々にも家がありました。財産もありました。家族もいました。しかし、それらは洪水から人を救うことはできませんでした。人間が造ったものでは、人間を罪と死から救うことはできないのです。私たちも、自分の力や経験や知識に頼って生きようとします。しかし、それらは人生を豊かにすることはできても、罪と死から私たちを救うことはできません。救いは神が備えてくださった場所にこそあります。
そして「主は彼のうしろの戸を閉ざされ」ます。ここで「閉ざす」と訳されている言葉には「完全に閉じる」「守るために閉じ込める」「外から閉める」という意味があります。「ノアが戸を閉めた」のではなく、「主が閉ざされた」のです。ここに神の恵みがあります。もし戸を閉めることがノアに任されていたなら、ノアは本当に閉めてよいのかと迷ったかもしれません。あるいは閉めることが遅れたかもしれません。
しかし、救いを完成させるのは人間ではありません。神ご自身です。神はノアたちを箱舟の中へ迎え入れ、その戸を閉じることによって、「あなたがたを最後まで守るのはわたしである」と示されたのです。
私たちの救いも同じです。私たちは自分の力で救いを守り続けるのではありません。私たちを最後まで守ってくださるのは主ご自身です。だからこそ、私たちは不安の中でも安心して歩むことができます。救いは人間の弱い手によって支えられているのではなく、決して揺らぐことのない神の御手によって支えられているからです。
「洪水は四十日のあいだ地上にあって、水かさが増し、箱舟をおし上げ」ます。箱舟は自分で進みません。ノアも家族も、櫂をこぐことはありませんでした。風向きを読む必要もありませんでした。ただ神が支えてくださるままに、水の上へと運ばれていきました。
私たちは、自分の人生を自分で完全にコントロールしたいと思います。しかし実際には、そのように生きることはできません。病気になることもあります。思いがけない別れもあります。予定どおりに進まないこともあります。そのような時、人は不安になります。しかし信仰とは、すべてを自分で支配することではありません。神の御手に自分を委ねることです。箱舟は水の上に浮かんでいましたが、それは不安定だったという意味ではありません。神が支えておられたので、最も安全な場所だったのです。私たちも人生の中で揺れることがあります。しかし神が支えてくださるなら、その揺れの中にも平安があるのです。
「地の上に動くすべての肉なるものは息絶え」ます。「すべて」という言葉が何度も繰り返されています。これは神の裁きが完全であったことを示しています。現代の社会では、「罪」という言葉をあまり聞かなくなりました。「失敗」や「間違い」という言葉はよく使われますが、「神に対する罪」ということはあまり語られません。しかし聖書は、人間の最大の問題は神から離れてしまったことであると教えています。神を忘れ、自分中心に生きるところから、多くの争いや憎しみや不正が生まれます。ですから神は罪をそのままにしておくことはなさいません。もし神が悪を見ても何も言われないお方であるなら、この世界に本当の正義はありません。神が裁きを行われるということは、神が正しいお方であることの表れでもあるのです。
しかし、この厳しい裁きの中にも一筋の希望があります。「ただノアと彼と共に箱舟にいた者たちだけが残った」とあるからです。ここで「残った」と訳されている言葉には、単に「生き残る」「残される」
という意味だけではなく、神によって守り残されるという響きがあります。実際、旧約聖書では後に「残りの者」という大切な思想が現れます。人々が神から離れても、神は御自分を信じる者を残し、そこから新しい歴史を始められるのです。
ノアたちは、自分の力で生き残ったのではありません。神によって残された人々でした。私たちも、自分の信仰が強いから救われるのではありません。神が私たちを恵みによって守り、支えてくださるから救われるのです。
「水は150日のあいだ地上にみなぎ」ります。洪水は40日で終わったわけではありません。雨がやんでも、水はなお地を覆い続けました。救われたノアたちも、すぐに新しい生活が始まったわけではありません。箱舟の中で長い時間を待たなければなりませんでした。
イエス・キリストを信じても、すぐにすべての問題がなくなるわけではありません。苦しみもあります。待つ時間もあります。しかし、その待つ時間もまた、神の御手の中にあります。
そして、ノアたちはその「待つ」時間を、神様が託してくださった「命の息のあるすべての肉なるもの」たちへの奉仕に費やしたでしょう。聖書自体はこのことについて語ってはいませんが、「海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」と神様に命じられた人間が、箱舟に入った生き物たちを放っておけるはずはありません。絵本作家のアーサー・ガイサートが『ノアの箱舟』(こぐま社)で描くように、住む場所を定め、食事を与え、排泄物の処理をし、仲良く暮らせるように世話をしたはずです。それは、罪によって失われてしまった楽園の回復のしるしにほかなりません。
箱舟は水の上を漂っているように見えても、神は一瞬たりともノアたちを忘れてはおられませんでした。実際、次の8章1節には、「神はノアを心にとめられた」との言葉があります。人は忘れることがあります。しかし神は決して忘れられません。そのことを知っているからこそ、私たちは今日も安心して歩むことができるのです。