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説教一覧

2026年8月30日

誇るものは主を誇れ

​エレミア書 9章22~23節
第1コリント1章26節~31節

松谷彰夫委員

2026年8月23日

神の平和

フィリピの信徒への手紙 4章2~7節

芳賀繁浩牧師

2026年8月16日

わたしたちの国籍は天にある

フィリピの信徒への手紙3章17節~4章1節

芳賀繁浩牧師

2026年8月9日

虹(前編)

創世記8章1~22節

芳賀繁浩牧師

2026年8月2日

箱舟

創世記7章6~24節

芳賀繁浩牧師

2026年7月26日

目標目指し

フィリピの信徒への手紙3章10~16節

芳賀繁浩牧師

2026年7月12日

ノア

創世記6章5節~7章5節

芳賀繁浩牧師

2026年7月5日

アダムの系図

創世記5章1~32節

芳賀繁浩牧師

2026年6月28日

協力者

フィリピの信徒への手紙2章19~30節

芳賀繁浩牧師

2026年6月21日

いのちの言葉を堅く持って

フィリピの信徒への手紙2章12~18節

芳賀繁浩牧師

2026年6月14日

主の名を呼ぶ

創世記4章17~26節

芳賀繁浩牧師

説教本文

わたしたちの国籍は天にある

2026年8月16日

フィリピの信徒への手紙3章17節~4章1節

芳賀繁浩牧師

 パウロは、「兄弟たちよ。どうか、わたしにならう者となってほしい」と勧めます。本来であれば「キリストにならう者となってほしい」と言うべきではないでしょうか。どうしてパウロは、自分をキリストの代わりに置くようなことをするのでしょうか。

 パウロがそう言うのは、「キリストの十字架に敵対して歩いている者が多いから」です。「キリストにならう」と言いながら、十字架抜きのキリスト、勝利と栄光のキリストだけを宣べ伝えている者たちがいることをパウロは知っているのです。イエス・キリストは、ただ死なれただけではありません。その死は、ローマ帝国の十字架刑による処刑でした。イエス様の処刑はユダヤの石打ち刑でも、ローマ帝国で一般的であった斬首刑でもありません。

 それは、ローマ帝国の治安維持政策として、現在で言えば「内乱罪」や「国家反逆罪」に当たる政治犯や、殺人や強盗といった凶悪犯にだけ適用された見せしめの刑罰でした。それは、すぐに命を奪わずに、時間をかけ、長く苦しませるための刑罰です。そして、その惨めな姿を人々の目にさらすことによって、人としての尊厳を奪い、指導者としてのカリスマを失わせようとしたのです。

 さらに、律法に「もし人が死にあたる罪を犯して殺され、あなたがそれを木の上にかける時は、翌朝までその死体を木の上に留めておいてはならない。必ずそれをその日のうちに埋めなければならない。木にかけられた者は神にのろわれた者だからである」(申命記21:22-23)とあることから、十字架刑にかけられるということは、神に呪われることを意味していました。

 十字架は、まさに「責めと恥との十字架」(讃美歌259)だったのです。そしてそれは、ローマ皇帝をはるかに超えたお方、天と地との支配者であるお方に対する反逆と、至高の尊厳に対する罪をあがなうためにはどうしても必要なことでした。

 ところが、キリストの十字架による罪のゆるしを喜ばない者たちがいます。キリストの教えがあれば、そしてキリストの模範があれば、あとは自分でできる、それで十分だというのです。しかし、そのときナザレのイエスは、教師であり先達ではあっても救い主ではありません。

 もしキリストの教えに従い、その手本にあわせて生きることで救われるのだとすれば、キリストは律法の与え手ではあっても完成者ではないということになります。私たちは自分の力で、キリストの律法に従い、完成しなければ救われないということになってしまうのです。

 けれどもそれは「わたしは自分のしていることが、わからない。なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである」(ローマ7:15)と嘆かざるを得ず、「わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか」(同22-24)と叫ばざるを得なかったパウロにとってはまさに不可能以外の何物でもありません。

 だからこそパウロは言わざるを得ないのです。「彼らの最後は滅びである。彼らの神はその腹、彼らの栄光はその恥、彼らの思いは地上のことである」。注目したいのは、「涙を流して」という言葉です。パウロは怒りながら語っているのではありません。悲しみながら、文字通りには「泣きながら」語るのです。パウロは、人々が信仰から離れていくことを見て、涙を流していました。それは、人を裁いて喜ぶような態度ではありません。その人々にも神の救いを受けてほしいという願いがあったからです。パウロ自身が、かつてそうだったからです。

 パウロは、「人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、ただイエス・キリストの真実による」(ガラテヤ2:16)ることを知りました。否、恵みによって知らされました。だからこそパウロは「だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか」と叫びに続けて、まったく唐突に「わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな」(ローマ7:25)と讃美することができたのです。

 パウロにとって「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである」(2:6-11)との「キリスト讃歌」は、文字通りの「いのちの言葉」(2:15)であり、これを「堅く持」つことによって、そしてそれによってのみ、私たちは「星のようにこの世に輝」くことができるのです。

 それが「わたしたちの国籍は天にある」ということの意味です。「国籍」と訳されている「ポリテウマ」は「市民権」や「市民として属する共同体」を意味する言葉です。

 ピリピは、ローマ帝国の植民都市でした。ピリピに住んでいる人々は、ローマから遠く離れていても、自分たちはローマの市民であるという強い意識を持ち、それを誇りとしていました。パウロは、その人々に向かって、「あなたがたの本当の市民権は天にある」と語ったのです。

 私たちは、この地上を歩む。しかし地上に属しているのではない。私たちは来るべき栄光の神の国に属している。私たちの本当の主は、ローマ皇帝ではない。私たちのために死んで、よみがえってくださったキリストである。それゆえ、私たちの人生の最終的な目的は、地上の成功ではない。ご自身の国において、私たちを「良い忠実な僕」として喜び迎えようとしておられるイエス・キリストである。

 私たちは、この地上にあっては、それぞれ違う国籍を持っています。話す言葉も違います。文化も違います。育った環境も違います。

 しかし、キリストにある時、私たちは一つです。私たちはキリストに属し、キリストの国である神の国の一員だからです。教会では、国籍の違いが最後の言葉ではありません。母語の違いも、最後の言葉ではありません。文化の違いも、最後の言葉ではありません。私たちを一つにするのは、同じ国に生まれたことでも、同じ言葉を話すことでも、同じ文化と歴史を共有することでもなく、同じただ一人の主イエス・キリストを信じているということです。教会は国を超え、人種を越え、文化を越えた「地上を旅する神の民」なのです。

 そこでは、違いを消す必要はありません。違いを持ったまま、一つの主を礼拝することができます。それが、天に国籍を持つ者たちの姿です。

 「そこから、救主、主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる」。「待つ」とは、何となく待つという意味ではありません。「期待しながら待つ」「熱心に待つ」という意味です。私たちは、何が起こるか分からない未来を、不安におびえながら待っているのではありません。何があろうとも必ず来て下さるキリストの未来を待っているのです。

 もちろん、私たちも心配します。病気になるかもしれません。仕事を失うかもしれません。大切な人との別れを経験するかもしれません。齢を重ね、身体が弱くなることもあるでしょう。しかし、それらは私たちの人生の最後の言葉ではありません。最後に来られるのは、救い主イエス・キリストです。私たちはその方を待っています。

 さらに大きな希望が語られます。「彼は、万物をご自身に従わせうる力の働きによって、わたしたちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さるであろう」。ここでパウロは、私たちの身体について語っています。キリストの救いは、心だけの救いではありません。私たちの身体も救ってくださいます。私たちは今、弱い身体を持っています。疲れる身体です。病気になる身体です。年を取る身体です。最後には死を迎える身体です。

 しかし、神はその身体を見捨てられません。キリストが復活されたように、私たちも復活の命にあずかります。パウロがここで語っている希望は、単なる「心の慰め」ではありません。神が私たちの存在そのものを新しくしてくださるという希望です。

 私たちの人生には、自分では変えることのできないものがあります。過去を変えることはできません。

 失ったものを元に戻すこともできません。自分の弱さを完全になくすこともできません。しかし、キリストは、私たちの人生の最後にある死さえも越えて、新しい命を与えてくださいます。だから、私たちは未来を恐れなくてよいのです。

 そして、「だから、わたしの愛し慕っている兄弟たちよ。わたしの喜びであり冠である愛する者たちよ。このように、主にあって堅く立ちなさい」と語られるのです。パウロは、ピリピの人々を「わたしの喜び」「冠」と呼びます。そして、「主にあって堅く立ちなさい」と勧めるのです。

 大切なのは、「主にあって」ということです。私たちは、自分の力だけで立ち続けることはできません。信仰が強い時もあります。弱い時もあります。喜びに満ちている時もあります。祈る言葉さえ見つからない時もあります。しかし、そのような私たちをキリストは決して見捨てません。

 だから、私たちは主にあって立つことができます。倒れても立ち上がることができます。主のもとに帰ることができます。迷っても、御言葉によって方向を示していただくことができます。そして、互いに支え合いながら、再び歩み出すことができるのです。それが、そしてそれこそが、私たちの希望です。そして、それは、私たちの希望だけではなく、すべての人にとっての希望なのです。キリストは教会の主であるだけではなく、世界の主であられるからです。

 このお方が、何ものにも奪われることのない希望をお与えくださいました。そしてその希望を伝え、証しさせるために、先に私たちを召してくださいました。だからこそ、私たちはこの希望の証人として、この世に遣わされていくのです。この希望の証人、神の国の証し人として歩みたいのです。

説教一覧

日本キリスト教会 南福島教会

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