日本キリスト教会 南福島教会(福島伝道所)
Nippon Kirisuto Kyoukai/Church of Christ in Japan Minami Fukushima-church
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説教本文
目標目指し
2026年7月26日
フィリピの信徒への手紙3章10~16節
なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつキリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。(フィリピ3章14、15節)
芳賀繁浩牧師
パウロが「最後に」、すなわち「最も大切なこととして」語ったのは「信仰による義」「キリストによる義」「恵みによる義」でした。罪によって壊れてしまった神様との関係を回復すること、それが「最も大切なこと」なのです。けれども、神様の恵みは「義とすること」だけでは終わりません。
神様は、ご自身との関係を回復した者たちに、さらに豊かな恵みを注いでくださいます。むしろ、神様はその恵みを注ぐためにこそ、壊れていた関係をイエス・キリストの十字架と復活とによって回復してくださったのです。
パウロは、「私は、キリストとその復活の力を知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです」と語ります。「知る」とは、単に知識を得ることではなく、人格的な交わりを通して自分自身が変えられていくような出来事を意味しています。パウロはキリストについて学ぶことではなく、キリストご自身と結ばれて、これまでとは違う自分として生きることを願っているのです。それは、一度限りの回心の経験にとどまることなく、全生涯をかけてキリストを知り、キリストに似た者へと造り変えられていく、たゆむことのない歩みです。
そのために「知る」べき第一のものは、「キリストの復活の力」です。「キリストはよみがえられた」「イエスは生きておられる」との証言は、「イエスは働いておられる」「イエスはここにおられる」ということだからです。パウロ自身、ダマスコ途上での「復活の主」との出会いによって生き方が百八十度転換しました。復活の力とは、迫害者サウロを使徒パウロに変える力であり、「私はなんと惨めな人間なのでしょう」(ローマ7:24)との嘆きを「私たちの主イエス・キリストを通して神に感謝します」との讃美に変える力なのです。
しかしパウロは復活を求めるだけではありません。続いて、「キリストの苦しみにあずかって」と語ります。「あずかる」と訳されているのは「交わり」「参与」「共有」とも訳される「コイノーニア」に由来しています。キリスト者はキリストの復活だけではなく、キリストの苦難にも結ばれているのです。
もちろん、私たちはキリストの贖いの苦難を繰り返すことはできませんし、その必要もありません。しかし、この世にあってキリストに従うゆえの困難、福音のために耐える苦しみ、人々に仕える中で負う労苦は、キリストの苦難との交わりまた参与として与えられているのです。
そしてそれは個人的なものであると同時に、教会のため、主にある交わりのための苦しみです。イエス様は荒野で悪魔の試みにあわれただけではなく、弟子たちのために苦しまれました。弟子たちはイエス様の教えを理解せず、誰が一番偉いかを争い、裏切り、ついにはイエス様を捨てて逃げ出します。パウロもまた誤解され、中傷され、裏切られ、捨てられる苦しみを味わいました。
それは未だ救われないこの世にあってはどの時代でも変わることはありません。それはキリストの苦しみと決して同じではありませんが、しかし確かに重なっているのです。
さらにパウロは「その死の姿にあやかり」と続けます。「苦しみ」は「死」に至るまでの苦しみなのです。しかしそれは「滅び」ではありません「あやかる」と訳されているのは、文字通りには「同じ形に造り変えられる」という言葉です。それは、自分に死んでキリストに生きること、古い自分とその罪とがキリストと共に十字架につけられて死に絶え、神の裁きと呪いと滅びから解き放たれることです。
それは同時に、キリストが十字架の死に至るまでの従順によって勝ち得てくださった神の子たる資格を与えられた者、まさに「キリスト者」として歩みだすことにほかなりません。神様は私たちを外面的にキリスト教徒らしく装わせるのではなく、キリストの謙遜と従順を内面に形づくってくださいます。キリストが父なる神様に従われたように、私たちもまた自分中心の生き方に死に、神様に従う者へと日々造り変えられていくのです。
そして、「何とかして死者の中からの復活に達したい」と語ります。「死者の中からの復活」を遂げたのはいまだキリストただお一人です。けれどもその復活は私たちの「長子」としてまた「初穂」としてのものでした。イエス・キリストは「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる」(ヨハネ11:25)と言われました。このお方を信じる者には、「死んでも生きる」約束と希望とが与えられているのです。
「達する」とは、旅人が目的地に到着することを意味します。キリスト者の信仰生活とは、救いを目指す難行苦行の歩みではなく、すでに救われた者が終わりの日の完成、神の国の到来を目指して歩み続ける巡礼の旅なのです。
この旅はまだ終わってはいません。パウロは「私は、すでにそれを得たというわけではなく、すでに完全な者となっているわけでもありません」と告白します。ここで「完全な者となる」とは「完成された状態にある」という意味です。使徒パウロでさえ、自分はまだ完成していないと言うのです。この地上に信仰の到達点はありません。それはいつも途上であり日ごとの歩みなのです。
だからこそ、そこには「何とかして捕らえようと努めているのです」という大きな志が語られます。ここで「捕らえる」には、 「しっかり掴む」「掴まえて離さない」という強い意味があります。
【キリスト・イエスによって捕らえられているから】
そして、そうすることができる理由こそ、「自分がキリスト・イエスによって捕らえられているから」です。これが福音の順序です。私たちがキリストを掴んだのではありません。キリストが私たちを掴んでくださったからこそ、私たちはキリストを信じることができ、キリストが私たちを「しっかり掴んで離さない」からこそ、私たちは信仰の歩みを続けることができるのです。
パウロは、この信仰の歩みを競技にたとえて、「後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、……目標を目指してひたすら走る」と言います。
パウロはかつて教会を迫害したという拭い去ることのできない過去を持っていました。しかし、その過ちに縛られて歩みを止めることもしませんでした。同時に、多くの伝道の実りや働きの成功にも安住しませんでした。過去の失敗にも成功にも心を奪われることなく、ただただ神様が自分の前に置かれた召しに応えようとしているのです。
私たちもまた、しばしば過去に囚われます。「あの時こうしていれば」と悔やみ、「昔はもっと……だったのに」と嘆きます。しかし神様は、イエス・キリストの十字架と復活とによって、私たちのすべての過去を引き受けてくださいました。罪は罪であり過ちは過ちです。それが消えてなくなることは決してありません。それは隠しようもなく神様と人との前にあらわです。しかし、神様は私たちの返済しようもない負債にキリストの血による真っ赤な二重線を引いてくださって、返済の免除を宣言してくださったのです。それは和解の希望であり、悔い改めて新しく生きることへの招きです。
そして、このたとえは実際の競技とは決定的に異なる点があります。パウロは、競争相手については何一つ語らないからです。その意味で、信仰は決して「競争」ではありません。目指されているのは「キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の賞」だからです。信仰とは、過去も未来も、喜びも悲しみも、不安も希望も、一切を神様に委ねて、なお前へと進むことなのです。
このことを知り、そのように生きる者こそが「完全な者」です。先に「完全な者ではない」と言いながら、ここでは「完全な者」と呼ぶのは、聖書の完全とは、欠点がなくなることではないからです。自分の不完全さ、不甲斐なさをいやというほど知らされながら、それでもなお、むしろだからこそ、キリストを目指し続ける者こそが「完全な者」なのです。
それゆえ、信仰の「完成度」を競うとか、「到達度」を比べるなどということは全く無意味です。信仰は人と比べるものではありません。パウロが「あなたがたが何か別の考え方をしているなら、神はそのことも明らかにしてくださいます」と語り、「いずれにせよ、私たちは到達したところに基づいて進みましょう」と勧める通りです。
ここで「進む」と訳される言葉には、「列を乱さず歩く」「一定の歩調を保って進む」という意味があります。軍隊が隊列を保って行進する様子にも用いられます。信仰生活は、一時の熱意によって駆け抜ける競走ではありません。神様がお与えくださった恵みを確かめつつ、きょうだいたちと共に歩調を合わせ、着実に前進していく恵みの歩みなのです。
現代は、成果や完成を急ぐ時代です。しかし神様は、私たちを一瞬にして完成させることはなさいません。一人一人を、それぞれにふさわしく、イエス・キリストの姿へと、忍耐をもって造り変えてくださいます。その道のりには喜びもあれば悲しみもあり、順風満帆の時もあれば逆風にさらされる時もあります。けれども、その歩み全体がキリストを知る歩みであり、永遠のみ国へと至る巡礼の旅なのです。