top of page

​説教集

前週の説教

2026年7月18日

「自分の義ではなく」
「わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の
絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。」3:8


 パウロは、「最後に、わたしの兄弟たちよ。主にあって喜びなさい」と語り始めます。この「最後に」は結びの言葉というよりは、むしろ、「一番大切なことですが」というほどの表現です。そしてここで命じられている「喜びなさい」という表現は「現在命令令」と言われる形で書かれています。それは瞬間的な感情ではなく、これまでも、今も、これからも「喜び続けなさい」という継続した命令なのです。
パウロはこの手紙を書いている時、囚人として鎖につながれていました。死刑になる可能性さえありました。客観的に見れば、喜ぶことのできるような状況ではありません。ここでパウはやせ我慢をしなさいと言っているわけではありません。たとえ状況がどのようなものであっても、「主にあって」喜ぶことができると言っているのです。キリスト者の喜びは周囲の環境から生まれるものではなく、十字架にかかり、そして復活された主との交わりから与えられるものだからです。
そして続いて、「あの犬どもを警戒しなさい。悪い働き人たちを警戒しなさい。肉に割礼を施す人たちを警戒しなさい」と非常に厳しい言葉を続けます。それは、「悪い働き人たち」の教えが、主にある喜びを損ない、失わせることになってしまうことをパウロが警戒しているからです。
 当時のユダヤ人は異邦人を「犬」と呼んで軽蔑していました。パウロがその言葉を逆に用いています。キリストの福音を歪める者たちこそ、神の民を危険にさらす存在であることを示しているのです。ここで問題となっているのは、異邦人キリスト者も救われるためには割礼を受け、モーセの律法を守らなければならないと教える人々でした。彼らはキリストを信じるだけでは十分でなく、人間の努力や律法の行いを加えなければ神に受け入れられないと考えていました。しかしそれは、キリストの十字架の恵みを不完全なものと見なすことにほかなりません。
 パウロは、「神の御霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇りとし、肉を頼みとしないわたしたちこそ、割礼の者である」と語ります。ここで「礼拝をする」と訳されている「ラトレウオー」は、本来は神への祭司的奉仕を意味する言葉です。旧約の時代には神殿での祭儀を表しましたが、
新約においては聖霊によって神に仕える生活全体を表す言葉として用いられるようになります。真の神の民とは、外面的なしるしを持つ者ではなく、聖霊によって神に仕える者なのです。
 また「誇りとし」という言葉には、「誇る」だけではなく「喜びとする」という意味があります。キリスト者は、自分の能力や実績を誇るのではなく、キリストだけを誇りとし喜びとするのです。
 さらに「肉を頼みとしない」とあります。この「肉」は 「サルクス」で、聖書では、単なる肉体のことではなく、神から離れ、神抜きに生きようとする人間のあり方を指す言葉です。家柄も、地位も、能力も、知識も、宗教的な熱心ささえも、それらを神様の前に差し出すことのできる資格とするならば、それは「肉」なのです。
 ここでパウロは逆説的に、「肉の頼みなら、わたしにも無くはない」と語り出します。自分が割礼と律法遵守を否定するのは、自分が割礼を受けていないから、律法を守りたくないからではないと言うのです。彼は、自分は割礼と律法遵守を要求する人たちの要求などは軽々クリアしていると主張します。
 「八日目に割礼を受けた者」とは、律法の規定の通りに育てられたことを意味します。さらにパウロは「イスラエルの民族に属する者」であるだけではなく、その中でも最初の王サウルを出し、ユダ王国に最後まで忠実であった「ベニヤミン族」の出身であることを明らかにします。かつて「サウル」と呼ばれていたのも、その出自を誇りとしていたからにほかなりません。
 そして、「ヘブル人の中のヘブル人」とは、ギリシア文化に同化せず、ヘブル人としての伝統を守り続けた家庭に育ったことを意味しています。律法については「パリサイ人」、熱心については「教会の迫害者」、律法による義については「落ち度のない者」であったと言います。
 パリサイ派は律法を最も厳格に守ることを目指したグループでした。使徒行伝によれば、パウロはエルサレムで、当代随一のラビであったガマリエルから「律法について、きびしい薫陶を受け」(使徒 22:3)たとされています。人間的に見れば、彼は誰からも尊敬される宗教家だったはずなのです。
 しかしパウロは「しかし、わたしにとって益であったこれらのものを、キリストのゆえに損と思うようになった。」と語るのです。ここで用いられている「益」も「損」も帳簿上の利益と損失を表す商業用語です。「天幕作り」を職業としていたパウロは、以前はこのような自分の宗教的経歴を人生最大の利益として計算していました。しかし復活のキリストと出会った時、その帳簿を書き換えました。それまで利益の欄に書いていたものを
すべて損失の欄へ移し替えたのです。
 そして、その表現はいっそう強くなります。「そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている」とパウロは言い切るのです。ここで「知る」とは、単なる知識ではありません。人格的な交わりによる認識を意味しています。パウロは、キリストに「ついて」知っていると言っているのではありません。キリストについての「知識」ではなく、「キリスト御自身を知っている」と言っているのです。
 そして、「絶大な価値」と訳される「ト・ヒュペレコン」は、「あらゆるものをはるかに超える卓越性」という意味です。キリストを知ることは、この世のどんな価値とも比較できないほど優れているというのです。
 そのために、彼は「いっさいのものを失った」と言います。実際、彼は社会的地位を失いした。かつての仲間からも見捨てられました。迫害され、投獄されました。しかし彼はそれらを惜しいとは思いませんでした。さらに彼は、「それらをふん土のように思っている」と語ります。
 ここで、「ふん土」と訳される言葉は非常に強い表現です。「生ごみ」「廃棄物」、それどころか「排泄物」に近い意味を持っています。キリストを得た今となっては、それまで人生を支えていたあらゆる誇りは、捨て去るしかないものとなったということです。
 パウロは「わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値」と言います。「キリスト・イエスを知る知識」ではなく「わたしの主キリスト・イエスを知る知識」です。それは、「イエス・キリストについての知識」が増えたということではなく、キリストが「わたし」の「主」であることを知ったということです。キリストの十字架と復活が、この自分のためであったことを知ったというのです。それが「絶大な価値」なのです。
 パウロはそれを「律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づく神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになる」ことだと言い換えます。これが「福音」であり「喜び」の根拠です。
 ここで「義」とは、神の前に正しいと宣言されることを意味しています。パウロは、自分で義を築き上げようとする道を捨てました。なぜならそれは「わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか」(ローマ 7:24)との嘆きと叫びとをもたらすほかはなかったからです。

 義、すなわち神様との正しい関係とは、人間が積み重ねる善行によって得られるものではなく、神様がキリストにあって無償で与えてくださるものだからです。ですから、この箇所を聖書協会共同訳は「律法による自分の義ではなく、キリストの真実による義、その真実に基づいて神から与えられる義」と訳しているのです。
 宗教改革者ルターは、この「福音」を「信仰による義」として言い表し、カルヴァンはさらに厳密に「キリストによる義」また「恵みによる義」と言い換えました。それは「信仰」がいかなる意味でも人間の側のわざではなく、神様の側のわざであること、十字架と復活というキリストの「真実」を、私たちが「真実」に受け取る「恵み」であることをはっきりさせるためでした。
 現代の私たちは、旧約の律法を守るかどうかで悩むことはないでしょう。けれどもそれは、「肉を頼みとする誘惑」と無縁であることを意味しません。私たちが「信仰」と呼ぶものがあたかも自分のものであるかのように思い違いをしてしまう危険はいつもつきまとっています。その結果は「驚き」と「喜び」と「感謝」の喪失です。けれども福音は、そのような自己信頼と自己呪縛から私たちを解き放ちます。私たちが神様に受け入れられているのは、私たちが立
派だからではなく、キリストが十字架においてすべてを成し遂げてくださったからであるとの「知らせ」こそが、私たちをあらゆる「べきである」「ねばならない」から解放して、「ゆるされている」「喜ばれている」との感謝と讃美とに私たちを押し出していくのです。

​アーカイブス

 

2026年6月14日(日)   

​「主の名を呼ぶ」  

牧師 芳賀 繁浩
創世記4章17~26節
「その頃、人々は主の名を呼び始めた。(26節)

 カインは弟アベルに手をかけた後、神様によって追放されます。神様は死刑ではなく追放刑を選択されるのです。カインはなお生きることを許され、それどころか結婚し、子をもうけることさえ許されます。神様の憐れみはそれほどまでに大きいのです。そしてそれは、カインに愛することと愛されること、慈しむことと育むことを教え、自分がアベルに何をしたのか、そしてアダムとエバとに何を行ったかかに気づかせて、悔い改めに至らせるためではなかったでしょうか。

 しかし、カインはこの神様の憐れみにふさわしく応えたようには思えません。「あなたは地上をさまよい、さすらう者となる」との神様の言葉は、「あなたは地上をさまよい、さすらう者となれ」との神様のご命令であり、だからこそそこには「そうすればあなたは~」という約束があったはずです。
 ノドすなわち「さすらいの」の地に住む、とは、寄留者として、旅人として住むということでしょう。ヘブライ人の手紙が「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束のものは手にしませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声を上げ、自分たちが地上ではよそ者であり、滞在者であることを告白したのです」(11:13)と教えるように、神様は、カインに目に見えるものではなく目に見えないものに目を注ぐことを教え、アベルのように、地上ではなく天上を見上げ、人ではなく神様を見つめるあり方、すなわち、信仰を与えようとされたのではなかったでしょうか。追放は、実は遙かな神の国への帰還への約束だったはずなのです。
 けれども、カインには神様の御心を理解することができません。否、理解しようとしません。彼は「町を築き」「息子の名前にちなんで、その町をエノクと名付け」ます。「エノク」とは「献げられたもの」という意味を持ちますが、ここでカインはこの町を神様に献げたようには思えません。むしろ「献げられた者」という名を持つ息子の名を町に付けることによって、あたかもその町そのものがカインの一族に献げられているかのようにさえ思えます。カインは、「天を故郷として地上を旅する信仰者」として生きることを拒否して「この地上に自分の一族の町を、そう言ってよければ、王朝を築こうとするのです。
 聖書において「名」は単なる呼称ではなく、その人の存在そのもの、さらにはその働きを表しています。町に名を付けるという振る舞いは、自分自身の存在を歴史の中に残そうとする試みとして理解することができます。神との交わりを失った人間は、自らの力によって永続性を確保しようとします。その姿がカインの町の建設に象徴的に示されているのです。

 さらにカインの子孫たちの中には、文化の担い手たちが現れます。ヤバルは牧畜の祖となり、ユバルは音楽の祖となり、トバル・カインは金属加工の技術の祖となります。ここには文化・文明の発達が描かれています。
 聖書は決して文化そのものを否定してはいません。人間に与えられた創造性も技術も、本来神様から与えられた賜物です。けれども、それを正しく生かして用いるためには、その賜物をお与え下さった神様との正しい関係がなければなりません。それを失うとき、文化も文明も本当の意味で人を幸せにすることはできなくなってしまうのです。
 人間は神から離れていても都市を建設することができますし、芸術を発展させることもできます。しかしその発展が神への礼拝を伴わないとき、人間は豊かになるほど神から遠ざかり、本当の人間らしさから遠ざかってしまうのです。
 そのことを象徴的に示しているのがレメクです。彼は聖書の中で最初に複数の妻を持った人物として描かれています。人の創造において神様は男と女を結び合わせ、一体となる夫婦関係を定められました。しかしここではその秩序が崩れ始めています。
 さらにレメクは妻たちに、自分が人を殺したことを誇る歌を歌います。そこには後悔の言葉はありません。むしろ自らの暴力を正当化し、それを誇示する態度すら見られます。「カインのための復讐が七倍なら/レメクのためには七十七倍」という言葉は印象的です。本来、神様がカインに与えたしるしは、罪
人であるカインをなお守ろうとする憐れみの表れでした。しかしレメクはその神の憐れみを、自らの暴力を正当化する根拠へと変えてしまっているのです。ここには、人が神の言葉に従わず、神様に向き直ろうとしないときに、どのように罪が増し加わっていくかが示されています。カインは罪を犯した後に恐
れを抱きました。しかしレメクは罪を誇りさえするのです。罪は放置されるならば、人間の内に深く根を張り、やがて良心の感覚そのものを麻痺させていくのです。
 レメクとその子孫たちの姿は、「神から離れた人間文化」の行く末を示していると言えるでしょう。都市が築かれ、牧畜や音楽や冶金術が発達する一方、人の心はより傲慢になり、暴力はより露骨になります。文明の発展と罪の深化が並行しているのです。私たちは、神様がカインを追放に留めたのは間違いで
はなかったかと思いさえします。

 けれども、聖書はカインの系統の物語で終わりません。アダムとエバとの間に新しいいのちが与えられるのです。エバはその子にセトと名づけ、「神はカインが殺したアベルの代わりに別の子を授けてくださった」と語ります。「セト」という名はヘブライ語の「シャート」に由来し、「置く」「備える」「定める」という意味を持っています。そこには、神が失われたものに代えて新しいものを与えてくださったという信仰の告白が込められています。
 アベルは殺されました。神を信じる者の系譜は断たれたように見えます。けれども、神様は御自身の救いの計画を中断されることなく、新たな始まりを備えてくださるのです。聖書は、人間の罪がどれほど重くまた深くても、神様の恵みがなおそこに働いていることを示すのです。
 そして、神様の新しい系譜の中から、カインとその末裔とは異なった歩みを始める者たちが生まれます。「セトにも男の子が生まれた。彼はその子をエノシュと名付けた。その頃、人々は主の名を呼び始めた」。ここで「呼ぶ」と訳されているヘブライ語は「カーラー」です。この語は単に名前を発音するという意味ではなく、祈ること、礼拝すること、助けを求めて呼びかけることを意味します。旧約聖書ではしばしば礼拝を表す言葉として用いられています。そして「主」と訳されているのは普通名詞としての「神」ではなく、固有名
詞の「主」(ヤハウェ)です。「主の名を呼ぶ」とは、神を求め、神に祈り、神に従って生きることを意味しています。神様は、ご自身の名を呼ぶ者たち、神を礼拝するものたち、その日々の生活そのものが礼拝であるような者たちを作り出されるのです。

 セトは自分の子どもに「エノシュ」と名付けます。それは、弱く、はかなく、死すべき存在としての人間を意味する語です。詩編などでもしばしばその意味で用いられています。セトは人間を弱いもの、愚かな者、貧しい者として認め、だらこそ本当に強う、本当に賢く、本当に豊かな存在である神を呼び求めるのです。そしてそれは同時に、同じように弱く、同じように愚かで、同じように貧しいからこそ、共に主の名を呼び、互いに補い合い、助け合い、愛し合う道を選び取ることに繋がってゆくでしょう。
 カインの系譜は、自らの名を残そうとしました。都市を建設し、技術を発展させ、力を誇りました。しかしセトの系譜は、人の限界と弱さを認めるところから始めるのです。そしてその弱さの自覚が、神への祈りと礼拝、そして隣人への愛へと導いたのです。
 人は、どれだけの力を持とうと、どれだけの知恵をたくわえようと、どれだけの技術を増し加えようと、なお苦しみ、なお悩み、なお迷います。人は自らの力によって罪や死の問題を解決することができません。人は自分が作り出したものによってはついに満ち足りることはできないのです。人は自分を作り出したお方によってだけ初めて満ち足りることができるからです。
 だからこそ聖書は、人間の希望を文明や能力の中ではなく、「主の名を呼ぶ」ことの中に見いだすのです。礼拝とは、自分の力によって生きることをひととき中断して、神に信頼して生きることを新たに確認する営みだからです。
 私たちもまた、自らの強さを誇る者としてではなく、神の憐れみを必要とするエノシュとして、主の御前に立っています。そして主の名を呼ぶ者として礼拝へと招かれています。この地上に町を築き、自分の名を残すことではなく、天にある故郷をこそ求め、旅人また寄留者として自らを言い表す、義人アベル
の末裔として歩みたいのです。

 

 

2026年6月21日(日)   

いのちの言葉を堅く持って 」  

牧師 芳賀 繁浩
フィリピの信徒への手紙2章12~18節

あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている(15節)

 パウロは、「そういうわけだから」と書き始めます。どういうわけかといえば、それは「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた」ということです。
聖書の勧めには、常に福音が、すなわちキリストの出来事が先にあります。私たちは私たちの従順によって救われるのではありません。イエス・キリストの「十字架の死に至るまでの従順」によって救われるのです。そして、この「イエス・キリストの従順」によって救われた者たちは、「イエス・キリストの従順」に目を開かれ、心を動かされ、魂を揺さぶられ、そして何よりもまず父な
る神様とイエス様がお送り下さる聖霊に導かれて、「キリストの従順」に倣う者たちとして歩み始めるのです。
それゆえ、ここでパウロが「わたしの愛する者たち」、より正確には「わたしの愛された者たち」呼ぶときにも、その中身を吟味するなら、その愛の主体はパウロである以上にイエス・キリトの父なる神様です。本来であれば「わたしの愛する、神様に愛されている者たち」となるところです。そのひとり子を十字架にお架けになるほどに私たちを愛しておられる神様に愛されているの
だから、そしてキリストの十字架と復活とのゆえに、私たちもまた「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者」と神様に言っていただいているのだから、私たちもまた「おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であ」ることができるはずであるし、またそうでなければならないとパウロは勧めるのです。
そのパウロは「わたしが一緒にいる時だけでなく、いない今は、いっそう従順でいて」と言います。それは、監督者であるパウロがいてもいなくてもということではありません。そうではなく、「従順」であるとはどういうことであるかを身をもって証しした「証人」としてのパウロがいなくてもということです。パウロは、異なった福音に堕ちていこうとするコリントの信徒たちに、身
を低くして「懇願」しました。パウロは「幾たびも旅をし、川の難、盗賊の難、同国民の難、異邦人の難、都会の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢えかわき、しばしば食物がなく、寒さに凍え、裸でいたこともあった」(IIコリント 11:26-27)と語り「もし誇らねばならないのなら、わたしは自分の弱さを誇ろう」(30)と証しします。パウロは上に立つものとして命令しているのではなく、共にに神様の前にへり
くだる同労者としてピリピの教会員たちに勧めているのです。

 そのパウロは、「恐れおののきつつ自分の救の達成に努めなさい」と語ります。もちろんそれは、救いが人の努力によって獲得されるということではありません。「達成に努めなさい」と訳されている言葉には「実現する」「完成へ導く」「働き出す」という意味があります。神様から与えられた救いを生活の中に実らせなさいということです。まかれた種は芽を出し、成長し、花を咲かせ、やがて実を結びます。神様によって与えられた救いは、信仰者の歩みの中で具体的な形となって現れていくことになっているのだから、そのようでありなさいとパウロは勧めるのです。「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって。それは神のよしとされるところだからである」と語られる通りです。
 ですから、ここで「恐れおののきつつ」と言われるときの「恐れ」も「おののき」も、神様に対する恐怖を意味しているのではありません。聖書において「主を恐れる」とは、神を深く敬い、その御前にへりくだることだからです。「恐れおののきつつ」とは「御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るため」に「そのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった」
(ヨハネ 3:16)神の愛の大きさ、広さ、深さ、高さへの恐れであり、ほかでもないこの自分にその愛が注がれていることへの「おののき」です。それはまさに驚きと喜びと感謝と讃美に溢れた「恐れとおののき」なのです。
 パウロはただ勧めるだけではありません。そこにはいつも慰めと励ましが付け加わっています。パウロは「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神」であることを思い起こさせようとします。祈りたいという思いも、御言葉に聞きたいという願いも、悔い改めたいという心も、神に従いたいという志も、そのすべての背後に神様の働きがあるからで
す。
 私たちはしばしば自分の弱さと貧しさに失望し、その愚かさと罪深さに絶望してしまいます。けれどでも、もし「生まれながらに神と人とを憎むことに傾いている」私たちが、神様の言葉を聞きたいと思い、神様に祈りたいと願い、悔い改めて神様と共にありたいと決意するとしたら、それはいかなる意味でも私たち自身の内側からではなく、私たちの思いを超えて、私たちの外側から私たちに注がれている神様の働き以外ではないはずです。
 そして、それが私たちの働きではなく神様の働きだからこそ、そこには確かさがあり、約束があり、希望があるのです。

 だからこそパウロは、「すべてのことを、つぶやかず疑わないでしなさい」と勧めることができます。「つぶやく」とは、旧約聖書においてイスラエルの民が荒野で神に向かって不平を述べた時に用いられた言葉です。神は彼らをエジプトから救い出し、紅海を渡らせ、マナを与え、水を与え絶えず守り導かれました。それにもかかわらず民はつぶやき続けました。神の恵みを忘れるとき、人は与えられているものではなく、与えられていないものばかりを見るようになってしまいます。
 また「疑わないで」と言うときの「疑う」とは、単なる疑問ではなく、不信から生じる争いや対立を意味しています。教会の力を奪うのは、外からの迫害だけではありません。内側に生じる不平や不満、互いへの批判や対立もまた、教会のいのちを脅かし、キリストの証しを損なってしまいます。
 それは、教会が神の恵みに生きる共同体だからです。私たちは、つぶやきによってではなく感謝によって、不信によってではなく信頼によって歩むように招かれているのです。その結果として、「あなたがたが責められるところのない純真な者となり、曲った邪悪な時代のただ中にあって、傷のない神の子となる」のです。
 ここで「純真な」とは、「混じり気のない」「純粋な」という意味を持っています。もちろん私たちは自分の力で完全な者になることはできません。しかし、イエス・キリストの救いのみわざによって神の子とされた者は、その恵みによってたとえ少しずつではあっても、「キリストに似たもの」へと変えられていくのです。
 そしてパウロは続けて、「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている」と語ります。「堅く持つ」と訳されていますが、この言葉には二つの意味があります。一つは「しっかり握る」という意味であり、もう一つは「差し出す」「掲げる」という意味です。パウロはその両方を含めて語っています。教会はまず福音をしっかり握らなければなりません。御言葉から離れてしまえば、教会はその存在の根拠を失います。しかし同時に、教会はその御言葉を世に向かって差し出すためにこそ建てられているのです、そうでなければ、教会はその存在の意味を失ってしまうのです。
「いのちの言葉」とは福音そのものです。主イエス・キリストの十字架と復活による救いの知らせです。罪の赦しと永遠の命を与える神の言葉です。神様は、この「いのちの言葉」を、知恵ある、力ある、富のある、地位のあるものたちにではなく、小さく、弱く、貧しく、愚かな、「キリストの僕たち」、教会に託して下さいました。それは「どんな人間でも、神のみまえに誇ることがな
いため」(Iコリント 1:27)でした。

 キリストの僕たちは、「太陽のように」輝くのでも、「月のように」夜を照らすのでもありません。私たちにはそのような力はありません。けれども、私たちは「星のように」、すなわち、あの「東からきた博士たち」が「ユダヤ人の王としてお生れになったかたは、どこにおられますか。わたしたちは東の方でその星を見たので、そのかたを拝みにきました」(マタイ 2:2)と語るような仕
方で「輝く」ことができます。それで充分なのです。そして、それは「キリストの僕」以外には果たすことのできない、光栄ある働きであり務めなのです。

2026年6月28日  

​ 「協力者」   

牧師 芳賀 繁浩
フィリピの信徒への手紙2章19~30節
彼は私の兄弟、協力者、戦友であり、また、あなたがたの使者として、
私の窮乏のときに奉仕してくれました(15節)


 パウロは、突然調子を変えて、極めて具体的な事柄について語り出します。一見したところ、神学的な教えや信仰生活の勧めというよりも、旅行計画や人事の連絡が記されているだけに見えます。実際、パウロはテモテをフィリピに送りたいと思っていること、自分自身も後に訪問したいと考えていること、そ
してエパフロディトを送り返すことについて語っています。けれども、この箇所は決して付随的な記事ではありません。むしろ、キリストのへりくだりと従順の教えが、教会の中でどのような姿を取るのかを示しているのです。
 パウロは、「恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい」と勧め、「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです」と証しします。そして「何事も、不平や理屈を言わずに行」うことによって、「この世で星のように輝」く存在となるよう勧めます。それを可能にするのが「いのちの言葉を堅く持」つことでした。それがどういうことかを、パウロは二人の人物の姿を通して描こうとするのです。
 まずパウロはテモテについて語ります。「テモテをそちらに遣わすことを、主イエスにあって望んでいます」と語り、その理由として「テモテのように私と同じ思いを抱き、親身になってあなたがたのことを心にかけている者はほかにいません」と述べています。ここで「同じ思いを持つ」と訳されているギリシア語はisopsychon(イソプシュコン)であり、新約聖書の中ではここにしか現れない大変珍しい言葉です。この語は「同じ」を意味するisos (イソス)と、「魂」あるいは「心」を意味するpsyche(プシュケ) から成り立ってお
り、「同じ魂を持つ者」「心を一つにする者」という意味を持っています。
  パウロはテモテを有能な助手として評価しているのではありません。彼はテモテの内に、自分と同じ福音への情熱と、同じ教会への愛と、同じ主への献身を見ているのです。だからこそパウロは、彼のような者は「ほかにいません」と言うことができたのです。

 続いて「他の人は皆、イエス・キリストのことではなく、自分のことを追い求めています」と語られます。厳しすぎるような表現ですが、「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考えなさい。めいめい、自分のことだけではなく、他人のことにも注意を払いなさい」と教えられていたことを考えれば納得できます。そして、この教
えの土台であり導きであり目標が「キリスト賛歌」です。パウロは、キリスト者のあり方はキリストご自身のあり方に重なるものでなければならないと教えるのです。自分自身を中心に据えるのではなく、自分を低くして他者に仕えるあり方こそがキリスト者のあり方です。そして、テモテはまさにそのようなあり方を「思い起こさせる」ことができる人でした。だからこそパウロは、自分
に代わって彼をフィリピに送ろうとし
ているのです。パウロは「子が父に仕えるように、彼は私と共に福音に仕えました」と語ります。パウロはここで一般的な親子関係を考えているのではありません。それは何よりもまず「父なる神と子なる神」を意味しています。
「かえって自分を無にして/僕の形をとり/人間と同じ者になられました。/人間の姿で現れ。へりくだって、死に至るまで/それも十字架の死に至るまで/従順でした」と言われる神の子の父なる神様に対する姿こそが考えられているのです。
 ここで「仕える」と訳されている動詞の語源は「奴隷」であり「しもべ」です。奴隷は主人に無条件に従う存在です。主人の命令が理解できてもできなくても、納得できてもできなくても従います。それが、まことに人となられたイエス様の神様に対する服従の姿でした。「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫ばれつつ、しかし「父よ、私の霊を御手に委ねます」
と息を引き取られたイエス様の姿こそ、子が父に仕える仕え方なのです。 

 ですから、パウロは、彼は私と「共に」福音に仕えました、と書き送るのです。テモテはパウロに仕えたのではありません。パウロと共に福音に仕えたのです。そして、福音に仕えるとは、イエス様が父なる神様に仕えたその姿を証しするという事以外ではありません。この点において、テモテはフィリピの人たちの見本なのです。
 だからこそ、パウロはテモテ以上にエパフロディトについて書き送ります。福音に仕えるとはどういうことかをその奉仕が明らかにしているからです。彼はフィリピの教会から獄中にあるパウロの世話をするために派遣されました。おそらく教会からの献金や支援物資を携えて長い旅をし、そのままパウロに仕えていたのでしょう。しかしその働きの中で彼は重い病に倒れました。当時の
長距離移動は大変危険なものであり、十分な医療もありませんでした。彼はまさに命を危険にさらしながら、教会と使徒のために働いたのです。

 興味深いことに、彼が心を痛めていたのは自分の病気そのものではありませんでした。彼は「自分の病気があなたがたに知られたことを心苦しく思っている」とあります。普通に考えるなら、自分の病気のことで精一杯になっていても不思議ではありません。しかしエパフロディトは違いました。彼は自分の病気を聞いて心配しているフィリピの教会の人々のことを案じていたのです。こ
こにもまた、自分自身よりも他者を思うキリストの心が表れています。
 パウロは彼を「私の兄弟、協力者、戦友」と呼びます。「兄弟」とはキリストにあって結ばれた家族であることを意味し、「協力者」とは共に神の働きに従事する者であることを意味します。そして「戦友」とは同じ戦場に立つ兵士のことです。ここでパウロがあえて軍隊用語を使うのは、そこには文字通りの命の危険があるからです。実際、エパフロディトは「キリストの業のために命
を懸け、死にそうになった」のです。ここで使われている表現は、単に病気になったという程度の意味ではなく「死にまで近づいた」という強い表現です。彼は文字どおり命の危険を経験しました。それは名誉のためでもなく、自己実現のためでもなく、キリストの業のためでした。彼は自分自身を惜しまずに献げたのです。

 テモテもエパフロディトも、キリストの姿を受け継ぐ者として描かれています。自分の益ではな神様の御業と教会の益を求め、他者のために自らを差し出します。二人ともキリストに倣って生きまた死のうとしているのです。その姿こそが、キリスト賛歌の具体的な実例なのです。
 「いのちの言葉」としての「キリスト賛歌」を「堅く持って」「この世で星のように輝」いている者たちの代表がこのテモテとエパフロディト、中でもエパフロディトでした。この世的に見れば、エパフロディトの働きは成功というよりは失敗であり、その働きは賞賛されるよりは責められるものであったかもしれません。けれども、キリストの地上のからだである教会にあってはそうで
はありません。またそうであってはなりません。もしエパフロディトの奉仕が退けられてしまうとしたら、それはキリストの十字架のみわざを退けられることだからです。人の目には失敗と見え、敗北と見え、恥と見える十字架こそが、神様のみこころの実現でした。エパフロディトの奉仕は、この「責めと恥」との十字架の証しでした。だからこそパウロは「主にある者として大いに歓迎し
てください。そして、彼のような人々を敬いなさい」と書き送るのです。

​ このとき「あなたがたの奉仕の足りない分」とは何であるかが明らかになります。それは、成功と栄誉を求め、「キリストを宣べ伝えるのに、妬みと争いの念に駆られて」しまい、「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つに」することができなくなってしまっていることにほかなりません。
 十字架を負うことを拒み、栄光と勝利のキリストのみを伝えようとする点において、フィリピの教会は大きな欠けを負っていたのです。だからこそパウロは、「いのちの言葉」としての「キリスト賛歌」によって「十字架の栄光」を思い起こさせ、テモテとエパフロディトの証しによって気づかせようとしているのです。「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中で完全に現れるのだ」(IIコリント 12:9)と言われる十字架と復活の主を宣べ伝えるために「キリストの
力が私に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」と呼びかけるパウロの声に耳を傾けたいのです。

2026年7月5日

「アダムの系図」 
創世記5章1~32節

アダムの系図は次のとおりである。(5:1)


 ここには「アダムの系図は次のとおりである」と記されています。「系図」と訳されているヘブライ語は、単に家系や血筋を意味するだけではなく、「生み出されたもの」「由来」「歴史」という広い意味を持っています。そして、「アダム」が本来は「人」を意味していることを考えれば、この部分は「人」とは何であるのかを語っている箇所だと考えていいでしょう。
 そこではまず「神が人を創造された時、神にかたどって造り、彼らを男と女とに創造された」と語られます。人は「神の形」であり、それは「男と女」という「関係」の中に表されるというのです。人は神との応答のうちに、そして人との交わりの中に生きるように創造されたのです。そて、神様はこの神と人と世界との関わりの全体を「祝福」されます。この祝福に生きることこそが
「人」が人であるということなのです。
 この「祝福する」という言葉は、創世記の初めから繰り返し用いられて、神様が命を与え、繁栄を望み、御自身との交わりの中で生きることを喜ばれることを表しています。アダムの系図、人の歴史は、この神様の祝福によってこそ支えられ、導かれているのです。
人は、この神様の祝福のゆえに価値があり、この世の物差しや人の思いを超えて生きる意味を持っているのです。現代社会では、人間の価値は健康であるかどうか、能力があるかどうか、社会の役に立っているかどうかという尺度で測られることが少なくありません。けれども、聖書はそのような価値観に対して、人間が尊いのは神のかたちに造られた存在だからであると教え、幼くとも高齢でも、病の中にある人も、弱さを覚えている人も、皆等しく神の御前でかけがえのない存在として生かされていると主張します。この確信こそが人が人であることを支える土台なのです。
 けれども、それに続く「アダムの系図」は、繰り返し繰り返し、これでもかこれでもかと「そして彼は死んだ」と語り続けます。それは、神に背き罪を犯した人間に「あなたは必ず死ぬであろう」と告げられた御言葉が現実となったことを示しています。人間は文明を築いても、知恵を得ても、長寿を全うしても、罪の結果として死を免れることはできないという厳粛な事実を、この系図
は静かに語り続けます。

 それでもなお、この章は死を語るために書かれているのではありません。なぜなら、「そして彼は死んだ」という言葉の前には必ず、新しい命が与えられたことが語られるからです。たとえ人は死んでも神の祝福は死ぬことがなく、その約束は次の世代へと確かに受け継がれ、その流れはやがてノアへ、さらにアブラハムへ、そしてキリストへと至る救いの歴史となっていくからです。
 生と死とが交互に繰り返される系図を読み進めていくとき、私たちは「この繰り返しはいつまで続くのだろうか」「結局は死が最後の言葉なのだろうか」と問わずにはいられなくなります。そして、その問いへの神様の最初の答えがエノクです。彼はこの系図の中でただ一人、「そして彼は死んだ」と記されることなく、「神とともに歩み、神が彼を取られたので、いなくなった」と語ら
れます。死はなお現実ですが、それが最後ではないこと、神と共に歩む者には死を超える希望が備えられていることが、この静かな系図のただ中から、まるで夜明けの光が差し込むように示され始めるのです。
 このエノクについては、わずか数節の中に「神とともに歩み」という表現が二度も繰り返されています。聖書が強調するのは、エノクが死ななかったといことよりも、むしろ彼がどのように生きたかということです。そして、その生涯を特徴づけるものはただ一つ、「神とともに歩んだ」ということだけです。
 しかし、聖書が最も強く語ろうとしているのは、その歩みの結果です。「神が彼を取られたのでいなくなった」とあります。ここで初めて「彼は死んだ」との、淡々と、そして呪いのように重ねられてきた生の終わりの言葉の連鎖は途切れます。死は終わりではないのです。もちろん、ここからすべての信仰者が死を経験しないという結論を導くことはできませんし、創世記もそのようなことを教えようとしているのではありません。むしろ、この系図全体の中で一人だけ「そして彼は死んだ」という言葉が用いられていないことによって、死が神の最後の言葉ではないことを、神はこのときからすでに示しておられるのです。
 この出来事は、新約聖書においてさらに豊かな光の中に置かれます。ヘブル人への手紙は「信仰によって、エノクは死を見ないように天に移された」と語り、それは「神に喜ばれた」からであると説明しています。そして、そのすぐ後に「信仰がなくては、神に喜ばれることはできない」と続けます。エノクは特別な能力や功績によって神に受け入れられたのではなく、神に信頼し、その御前に歩み続けた信仰こそが喜ばれたのです。そして、彼の歩みはすべての信仰者の歩みを代表するものとして新約聖書に受け継がれているのです。

 そして、この希望は主イエス・キリストにおいて完全なものとなります。エノクは死の支配の中に差し込んだ一条の光でしたが、キリストは死そのものに打ち勝ち、復活によって死の力を根底から打ち破られました。それゆえ、私たちはもはや死を最後の言葉として受け止める必要はありません。もちろん、私たちはなお肉体の死を経験します。しかし、その死は神との交わりを断ち切るものではなく、復活の主の御許へと導かれる門となったのです。
 その意味で、「神とともに歩む」という言葉は、エノクだけに与えられた特別な評価ではありません。キリストによって神との和解を与えられた私たちもまた、日々の生活の中で神と共に歩むよう招かれています。その歩みは決して華々しいものではなく、毎週の礼拝を守り、御言葉に耳を傾け、祈りを献げ、悔い改めながら新しい一日を歩み出すという、ごく平凡に見える日々の積み重ねですが、神はその静かな歩みを何よりも尊び、御自身の永遠の御国へと導いてくださいます。創世記第五章は、死の系図としてではなく、神と共に歩む者には死を超える希望が与えられていることを証言する信仰の系図として、今日も私たちに語りかけているのです。
 系図の中心にエノクという一筋の光が差し込んだあと、創世記は再び静かに系図を続け、メトセラ、レメクへと歴史を進めていきます。そして、最後に登場するレメクについては、それまでの人物とは異なり、一つの言葉が添えられています。それは、彼が生まれてきた子に「ノア」という名を与え、その名前に込めた願いを語っていることです。彼は語ります。「この子こそ、主が地をのろわれたため、骨折り働くわれわれを慰めるもの」。この言葉によって、この系巣は、「希望を待ち望む人々の歴史」として閉じられることになります。
 「ノア」という名は、ヘブライ語ではノーアハであり、「休息」「安らぎ」という意味を持っています。そして、レメクが語る「慰める」という言葉は、ナーハムという動詞で、「慰める」「憐れむ」という意味を持ちます。この二つの語は響きが非常に近く、古くから言葉遊びのように結び付けられて理解されてきました。レメクは、自分の子に「休息」という名を与えながら、この子が
自分たちに「慰め」をもたらしてくれることを願ったのです。
 もっとも、ノアが直ちにその慰めを完成させたわけではありません。確かにノアは洪水を通して新しい世界の始まりに立つ人物となりますが、洪水の後にも罪はなお残り、ぶどう酒に酔うノアの姿や、その家庭に起こる悲しい出来事が記されています。ノアは約束された救いを完全に成し遂げる人物ではなく、その救いを待ち望ませる人物となったのです。

 しかし、それこそが旧約聖書全体の歩みでもあります。一人ひとりの人物は神に用いられますが、誰一人として神の約束を完全に成就することはできません。アダムも、ノアも、アブラハも、モーセも、ダビデも、それぞれ神の御業のために召されながら、その使命を完全に果たすことはありませんでした。けれども神は、その不完全な人間たちを用いながら、約束を少しも途切れさせることなく歴史を導いてこられたのであり、その長い系図の果てに、ついに約束の子として主イエス・キリストを世に遣わされたのです。
 「アダムの系図」が指し示す、死によって終わることのない命も、神と共に歩む生き方も、そこに与えられる慰めも、イエス・キリストによってはじめて本当の意味で実現することになります。
創世記第五章は決して「長寿の人々の一覧」でも「古代の家系図」でもありません。それは、罪と死の支配の下に置かれた人の歴史の中で、なお神が契約を守り続けておられることを証言する信の系図です。神はアダムにおいて御自身のかたちを与え、セツの系統において礼拝する民を残し、
 神と共に歩む人生の希望を示し、ノアにおいて慰めの約束を与えられました。そして、それらすべての約束はイエス・キリストにおいて一つとなるのです。私たちもまた、この系図に連なる者です。私たちの人生にも老いがあり、病があり、やがて死があります。しかし、私たちは死だけを見つめて歩む者ではありません。神の契約の中に生かされ、復活の主とともに歩み、神が約束された永遠の慰めを待ち望みながら歩む者です。その歩みは決して人の目には華やかなものではではないかもしれません。けれども、神様はその一日一日を御自身の救いの歴史の中にしっかりと覚えていてくださいます。
 創世記第五章は、静かな系図です。しかし、その静けさの中には、死よりもなお力強い神の約束が脈打っています。そして、その約束は今もなおイエス・キリストを信じる者たちに受け継がれ、私たちもまたその約束の中を歩む者として、来るべき神の国を望み見ながら、それぞれに与えられた信仰の道を歩み
続けるよう招かれているのです。

2026年7月12日

「 ノ ア 」

創世記6章5節~7章5節
 ノアの歴史は次のとおりである。その時代の中で、ノアは正しく、かつ全き人であった。神様と共に歩んだのがノアであった。(9節)


 主は「地上に人の悪がはびこり、その心に計ることが常に悪に傾くのを見」られました。ここで「悪」と訳されている言葉は、道徳的な失敗や一時的な過ちのことではありません。神様が創造を終えられた時「極めて良かった」と宣言されましたが、その「良い」に対置されるのがこの「悪」です。人は神様がお与えくださった「良い」あり方を捨てて、自ら神様に敵対する存在となってしまったのです。
 神様は、行動だけではなく、その根源にある心を問題にしています。「心」とは、感情だけではなく、人間の思考、判断、意志、人格の中心を意味しています。外側の行いだけではなく、人間存在の最も深いところが「悪く」なってしまっているのです。
 そして「思い巡らすこと」と訳されている「イェーツェル」は「形づくること」「形成すると」を意味します。人の心が作り出す考えや企ての全てのことです。そしてそれは「絶えず悪に傾」いているのです。時々悪に傾くのではなく、継続して、不断に悪を生み出しているというのです。悪は人間の存在全体を深く蝕んでいる力であることが示されているのです。
心を痛められた神様は「地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められ」ます。「悔やむ」とは人が失敗を後悔することとは異なります。神様が誤った判断をされたということではなく、深い悲しみや痛みを覚え、その状況に対して態度を変えられることを表しています。神様は罪を見ても何も感じない無感覚なお方ではなく、御自分が愛をもって造られた人間が罪によって滅びへ向かっていることを深く悲しまれるお方なのです。
 さらに「心を痛められた」とは、強い苦痛や悲嘆を意味します。神様は、人の罪を御自身の悲しみとして受け止められるのです。それは裁きの前にある愛の悲しみであり、愛しておられるからこそ罪をそのままにしておくことがおできにならないという聖なる愛の現れです。
 神様は、「私が創造した人を地の面からぬぐい去る」と宣言されます。それは、これ以上地上に人の悪がはびこることを止めるためです。神様は「極めて良かった」この世界が、人の悪によって汚され傷つけられていくのを放置することができません。この世界を人の悪から守るために、神様は人を「地の面から消し去る」ことを決意されるのです。

 けれども、裁きの宣言によって聖書は終わりません。「だが、ノアは主の目に適う者であった」と記されます。この神様の「だが」「しかし」によって全てが転換していきます。人間の側には希望がありません。けれども神様は御自身の恵みによって救いの道を開かれます。
 「目に適う」と訳されている言葉は「恵み」とも訳される言葉です。人間の功績によって得られる報いではなく、神様が自由な憐れみによって与えてくださる恩寵を意味しています。ノアは優れた人物だったから選ばれたのではありません。神様の恵みによってこそ、ノアは神様と共に歩む者とされたのです。
 9節には、「ノアは正しく、かつ全き人であった。神と共に歩んだのがノアであった」と記されています。「正しい」と訳されているヘブライ語は「ツァディーク」です。この言葉は、道徳的に非の打ち所がない人物を意味するものではありません。本来は、正しい関係の中に立っていることを表す法的な言葉です。神様との関係において神様に受け入れられている者、神様との関係を誠実に保っている者が「正しい人」と呼ばれているのです。
 ノアが「正しい人」であったということは、彼が何一つ罪を犯さない完全な人間だったということではありません。実際、洪水の後のノアの弱さや失敗も聖書は隠すことなく記しています。ノアの正しさとは、神様を信頼し、その御言葉に従う歩みの中に現された神様との関係の真っ当さのことなのです。
 ですから「全き」と訳される「ターミーム」も「完全無欠」という意味よりも「一途である」「誠実である」という意味です。神様に献げる犠牲が「傷のないもの」であることを表す際にも用いられますが、それは外面的な完璧さではなく、神様に献げるにふさわしいものであることを表しています。
 ノアは、神様の前で心が分裂しておらず、一途でした。周囲の価値観に流されることなく、神様だけを見上げて歩む誠実さが与えられていたのです。そして、最も重要なのが「神と共に歩んだ」という一句です。旧約において「歩む」とは、人生そのもの、生き方そのものを表します。一時な宗教的体験ではなく、日々の生活の中で神様の導きを受けながら歩み続ける生涯の全体
が意味されているのです。
 そしてこの歩みは、「神の前に腐敗し」「暴虐に満ちていた」と形容される「地」のただ中でなされました。ここで「暴虐」とは、単なる物理的な暴力だけを意味しません。それは、不正、搾取、権力による圧迫、社会秩序の崩壊など、人間同士の関係が破壊されている状態のことでもあります。罪は個人の問題にとどまらず、社会全体を腐敗させ、共同体を破壊する力を持つのです。

 神様はその現実を見過ごされませんでした。神様はノアに言われます。「すべての肉なるものの終わりが、私の前に来ている。彼らのゆえに地は暴虐で満ちているからである。今こそ、私は地と共に彼らを滅ぼす」。それは「霊なるもの」を捨てて「肉なるもの」を求め、その結果「肉な者」となってしまっ者たち、そして自らのみならず、すべての創られたものに「終わり」を来たらせようとしている者たちに「終わり」をもたらすとの宣言です。   
 神様はノアに箱舟を造るよう命じられます。ここで詳細な設計図が記されているのは、神様の救いが漠然としたものではなく、極めて具体的で確かなものであることを示しています。神様は裁きを宣言されるだけではありません。同時に救いを備えてくださいます。裁きと救いは別々にではなく、一つの神様の御計画の中で同時に進められているのです。
 それどころか、神様は「私はあなたと契約を立てる」と言われます。ここで聖書で初めて「約」を意味する「ベリート」という言葉が登場します。それは、神様がその恵みによって人をご自身との交わりへ招き入れ、その約束を誠実に守り続けられることを意味しています。ノアはその契約にあずかります。「すべて神が命じられたとおりに行い、そのように実行した」とは、「神と共に歩む」とはどういうことかを示しています。神様の言葉は、人々から見れば理解し難いものであったでしょう。陸地に舟を造るなど、笑い話でしかありません。しかしノアは、自分が理解できるかどうかよりも、神様が言われたということを大切にしました。信仰とは、自分が納得したから受け入れるということではなく、神様が語られたから従うというあり方のことだからです。
 神様は「あなたと家族は皆、箱舟に入りなさい」と命じられます。箱舟の建造は終わり、いよいよ神様の裁きが始まる時が近づいていました。しかし、ここで神様が最初に語られる言葉は裁きではなく、救いへの招きです。神様は御自分が備えられた救いの中へ、まずノアとその家族を招き入れられるのです。
 その理由は「この時代にあって私の前に正しいのはあなただと認めた」からでした。ここで改めて「ツァディーク」という言葉が用いられますが、注目すべきは、神様が「正しいのはあなた」だと「認めた」と言われることです。正しさを判断されるのは、人ではなく神様です。また、「私の前に」という表現も重要です。人間の評価ではなく、神様の御前においてどうであるかが問われています。ノアは周囲の人々の顔色をうかがって歩んだのではありません。神様の顔の前に生きることを第一として歩み続けたのです。

 二節から三節では、清い動物と清くない動物を区別して箱舟に入れるよう命じられています。洪水後、ノアは箱舟を出るとすぐに主への献げ物をささげます。そのため神様は、礼拝が途絶えないよう、犠牲に用いる動物を十分に備えてくださいました。神様は肉の命を救われるだけではありせん。救われた者が神様を礼拝し、神様との交わりの中に霊の命を守り続けられるように備えてくださいます。救いの目的は、単に滅びを免れることではなく、神様との交わりを回復し、礼拝する民として生きることだからです。
 そして神様は「七日の後、私は四十日四十夜、地上に雨を降らせ」ると告げられます。七日という期間は、神様が最後に与えられた猶予の時でもありました。神様は直ちに裁きを執行されるのではなく、なお忍耐をもって時を与えられます。神様の裁きは決して性急なものではありません。神様は繰り返し警告を与え、悔い改めを待ち続けられるのです。けれども、それは無限にではありません。神様の裁きが侮られることは決してないからです。
 そして最後にもう一度「ノアは主が命じられたとおりにすべてを行った」と語られます。この反復は偶然ではありません。それは、信仰とは最後まで神様の言葉に従い続ける歩みであることを示しています。箱舟を造る時だけではなく、その中へ入る時にも、ノアは神様の言葉に従いました信仰は一時の熱心さではなく、生涯を通して神様の御言葉に身を委ね続ける歩みなのです。新約聖書は、この箱舟を単なる歴史上の出来事として終わらせていません。
 ペトロの手紙 13 章 20 節以下では、箱舟による救いが洗礼を指し示すものとして語られています。それは、水そのものに救う力があるということではなく、神様が備えられた救いの中に入れられることを意味しています。そして、その救いは究極的にはイエス・キリストにおいて完成しまた。十字架と復活によって、神様は罪に対する義なる裁きを成し遂げると同時に、罪人に対する完全な救いの道を開いてくださったからです。
 今日、私たちはノアのように巨大な箱舟を造るよう命じられているわけではありません。しかし、神様がキリストにあって備えてくださった救いを信じ、その御言葉に従って歩むよう招かれている点では同じです。周囲の価値観がどれほど変わろうとも、神様と共に歩む人生こそが真に祝福された歩みであり、その歩みは神様の恵みによって支えられています。洪水の物語は、裁きの物語で終わるのではありません。神様の恵みが裁きを貫いて救いを完成させる物語です。そしてそのみは、今もなお、主イエス・キリストにあって私たち一人一人に差し出されているのです。

日本キリスト教会 南福島教会

Nippon Kirisuto Kyoukai/Church of Christ in Japan Minami Fukushima-church

© 2020 by minami fukushima-church
Wix.comで作成したホームページです。

〒960-8161
福島県福島市郷野目字師々田6-3

連絡先 牧師 Tel  090-7728-2365  

    委員    Tel  090-2882-9342

    教会    Tel  024-546-9980

  • Facebook Social Icon
  • Twitter Social Icon
  • Google+ Social Icon
bottom of page